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ホームページと校歌・校章

安倍 秀勝

ホームページ

小学校同期会の葉書が、郵便受けに投函された。上北鉱山を離れて20年、当時38歳の秋である。

待ち合わせ場所は東京上野、西郷隆盛の銅像の下と記されている。

葉書を見ながら上北鉱山で暮らした思い出の記憶が、雪景色や紅葉に彩られ、蘇って来る。

当日集まったメンバーは18名。懐かしい同級生の再会と共に、思い出話に華が咲き、酔いが回る。 そして、締めは校歌斉唱である。幹事が用意したメモを片手に、忘れかけた歌詞が酒の勢いで盛り上がる。

まだ携帯電話やパソコンの無い時代である。その後、十数年を経て我が家にもパソコンが入り、携帯電話も当たり前の時代となる。

多種多様のインフラが整備され、世の中もデジタル社会に急速に移行していく。物珍しいものに直ぐに飛びつく性格は、父親譲りかも知れない。パソコンを自作して、面白半分に「上北鉱山」と称したホームページを作ることになった。

当初はページ数も少なく内容も乏しいものだったが、掲示板を加えて、とりあえずホームページらしく完成。知人を通じて、湯浅さんの兄さんが「上北ニュース」の原本を創刊号から所持していると聞き、原本を借りして、ホームページに追加する事となった。

原本はかなり劣化していて、新聞よりかなり小さいがB4サイズである。ホームページに取り込むには、A4サイズに縮小コピーしてさらにスキャナーで取り込み、画像データーで保存しなければならない。

けっこう、これが大変な作業である。時間がかかるし、なにしろ364枚の膨大な資料のデジタル化である。

取り込んで見ると、創刊号から第114号の内容には、所々欠落しているページが見つかった。少し残念だなと思っていたところへ、掲示板を見て思いがけない人からメールが届く。

その方は、この創刊号を編集したメンバーの一人、故和田山善之様からであった。その当時の「上北ニュース」の原本を、今でも大切に保存しているとの事。早速資料を拝借し、湯浅さんの欠落部分は和田山様の資料で補填され、「上北ニュース」はほぼ再現する事に成功するのである。

和田山様からは、この当時編集に使われた膨大な写真集も所持していて、この写真も活用して下さいとの嬉しい応援。また、湯浅さんは、恩師高見先生の影響で音楽活動に従事していたようで、小学校と中学校校歌の演奏曲をMDに書き込み、送ってくれました。この事で、ホームページに湯浅さんのバックミュージックが流れる事となった。

掲示板に、たくさんの鉱山関係者からの投稿が寄せられ、思いがけない繋がりで情報が増え、上野で再会した小さな出会いが横軸となり、今世代を超えて大きな縦軸に結びついた感が致します。

今後も末長く、上北鉱山ホームページを運営していきますので、皆様の応援宜しくお願い致します。

 

校歌と校章 急がれた校歌制定

(以下の内容は、竹内敏夫先生から岩崎繁様に送られた手紙から抜粋したものです。)

6年生の修学旅行。函館から大沼公園へ行く途中のバス車内での事である。子供たちは、早朝からガソリンカーに揺られ疲れてコックリ、コックリ。

ガイド嬢「ここで、皆さんの学校の校歌を聞かせて下さい」車内「シーン」。我が上北鉱山小学校には、学校のシンボルでもある校歌というものが無い。

言いようのない痛撃を食らってしまった。児童たちこそ、校歌のなんたるかも知らないのである。

やがて、すーと立ったK先生「さあ元気にうたうぞ!!」

「♪ はれた おそらに チョウチョがとんで・・・・・それっ」

子供たちがもっとも歌えるのが、この歌であった。当時、ラジオではやっていた童謡、朝礼の時全児童が合唱していたものである。

ガイド嬢「大変、元気のいい、校歌でした」。

この時同乗していた米田勇四郎校長、校歌を持たない「みじめさ」を、身にしみて味わってしまったのである。それから、校歌制定のため米田校長自ら奔走しはじめたのは、当然の事である。

作詞は小野正文先生、作曲は校長同郷のよしみをもって南啓喜先生に依頼したと思われる。正に与えられた校歌では無く、学校一丸となって、必要にせまられて制定された校歌であった。

されば、校旗樹立を願うのは当然の事であった。しかし、またしても校章が無い。校長に頼まれ、自分が(竹内敏夫先生)が草案することとなる。

あれこれ、知恵を絞っての作品であるが、意とする事はこの様な事である。

岩を蹴って飛び上がる英知ある若鷹を図案化し、胴体を「ペン」にして勉学に励む志を。

荒鷲が岩を蹴っている足で、小学校の「小」を型どおり、大空へ向かって羽ばたく願いを込めている。

バックの円は、日本鉱業のシンボルマークを取り入れた。




上記図案は、竹内敏夫先生 本人の自筆である。