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あの山懐にわが青春が

石川 繁男

「かみきた」という語句には、懐かしさと快い響きがある。

そして、ぶなの緑に覆われて、山内を縦走する坂道を、高森山と折紙山に挟まれた山峡が瞼に蘇るのである。

選鉱場の大きな屋根、カラカラとなる鉄索の音、空を行き交う搬器の姿、供給所に往き来する人の流れ、山腹に並んだ赤い屋根の社宅の棟々、冬は灯りが雪に映えて幻想的な光景を見せてくれた。

風景画の好きな私は、奥の沢から見おろす野辺地湾と下北半島の眺めに、いつも立止まったものである。また、田代平から望む残雪の八甲田山と秋の紅葉も忘れがたい。

 

戦争に敗れ、その年の12月半ば過ぎ、千曳から雪道を一日がかりで歩いて鉱山に入った。それが上北への第一歩であった。職場は工作の鉄工場で、機械の運転や整備補修などの仕事を経験した後、労働組合の専従役員になり、多くの人々と接触して、貴重な人生経験を積むことができた。

独身時代の寮生活が長く、そこは地元をはじめ各地の方言が飛び交い、「まいねえ、まいねえ」と言いながら始終賑やかだった。戦後暫くの間は酒のない時代で、ドブロクを入手してきては酒税反対闘争と称して飲み交わし、時局を論じ、文学や人生を語り、放歌高吟する日々を送っていた。その仲間たちも、大方は天の風になってしまい、寂しい限りである。折にふれては思い出すあの顔、あの声。

 

しかし、呑んでばかりいたわけではなく、文化活動にも大分かかわった。演劇では何回も舞台を踏んだし、舞台監督も務め、県の文化祭にも参加した。劇場のステージで独唱したことも23回あった。高校の学習、同好会の仲間との文芸誌の刊行、コーラス、ダンスも習った。運動会では、いつもリレーの選手としてアンカーを務めた。鉱山の一大イベント山神祭では神輿も担いだし、盆踊りの太鼓に合わせて夜遅くまで踊った。山の夜は涼しく、蚊のいない平和の郷で、まさに天国だった。

こうして、あらゆるものに若さのエネルギーを注ぎ込んだわが人生の炎の時代だった。

鉱山には、きれいな女性が多く、いつも胸をときめかせていた。しかし、みな片想いで失恋の悲哀を味わっては溜息をつき、夜空の星を仰いで嘆いていた若い時代。すべてが川の流れのように過ぎ去って、私の青春時代は、かつて千六百の人が暮らしたあの山懐に包み込まれている。

 

昨今、絆という言葉がよく使われるが、同じ職場や環境で苦楽を共にした上北の仲間に本当の絆を感じるのである。

想い出は尽きない美わしの山よ

愛しの上北よ、いつまでもわが心に。