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上北鉱山の思い出

掛川 周男

昭和33(1958)4月に日本鉱業()に入社し、本社と日立鉱山での総合実習を終えて、専門実習で上北鉱山に赴任したのは真夏の8月でした。

乙供駅から営林署の森林軌道に乗って坪川に着いたのは学生時代に見聞した鉱山とは異なって深山幽谷の山の中でしたが、その頃東京でも都営アパート等で漸く建ち始めた鉄筋三階建てのアパート社宅があるのを見て一寸驚き安心した記憶があります。

その後、昭和353月に実習が明けて当時の木戸が沢鉱山に赴任するまでの二冬を挟む僅か一年八ヶ月の間でしたが、上北鉱山にはお世話になりました。

何しろ社会人一年生にとって初めて触れた上北鉱山の「一山一家」の社会から受けた強烈なインパクトはその後の長い人生の原点となりました。

 

独身寮生活で社宅の方には縁が無く、家族持ちの社宅での生活に触れる機会はあまりありませんでしたが、供給所・立石の食堂・劇場・病院等々、中就く、当時配属されてお世話になった探査課の皆さんや、先輩達からかなりイビラレた?清交寮の同宿の皆さん達との活気に満ちた生活を懐かしく思い出します。

 

探査課に配属されたと言っても、何も知らない青二才ですから、専門実習テーマとして「上の沢第二鉱体の賦存と石英粗面岩底盤の関係 」を与えられたまま放っておかれたため、毎日好き勝手に探査課の皆さんの尻に付いて奥ノ沢、上ノ沢、本鉱、立石の各鉱体の坑内測量や調査を見習ったり、ボーリングの親方の岡村佐太郎さんのお尻にくっついて坑外現場を回って岩芯を調査しながらテーマ論文の材料を集めたりしているうちにアッと言う間に一年八カ月が過ぎてしまいました。

 

岡村さんには良く山菜やキノコの見分け方や採り方を教えて貰ったり現場で昼食の弁当時に犬肉鍋を食べさせて貰ったこともありました。岡村さんから伝授の現場廻りのキノコ採りに熱中し、肝心の調査研究より面白く、ナメコや俗称ボリボリを沢山試料袋に入れて寮の付加食材として持ち帰って、賄いのおばさんに面倒臭がられたものです。

 

上北鉱山と言えば先ず思い出すのは雪で、赴任した昭和33年の冬は未曽有の豪雪で、鉱山事務所の前の広場の積雪が4m程で2階の窓下まであり、寮も屋根まで埋まって、先輩に新人の伝統義務だと叱咤されて、嫌々寮の屋根の雪下ろしや窓の雪掻きをさせられたのもほろ苦い思い出です。

 

冬の積雪季の坑外現場廻りはスキーを履いてですが、これも岡村さんに指導を受けました。雪が降る前に青森市でスキー道具や服装を一式買って来て、現場廻りの朝はボーリングの詰め所でワックスの塗り方を教えて貰ったものです。

当時の探査課には救護隊の斎藤仁さん、ボーリング組には指導員の資格を持った最上(光彦)さん達がいて、昭和34年12月の全山スキー大会では優勝しましたが、私も補欠選手の一人としてその一翼を担う光栄を得ました。

 

左から

阿部喜治さん

底田治三郎さん

小松政夫さん

岡村佐太郎さん

斎藤仁さん

掛川

 
      

蛇足ですが、後年私が南米チリーでの鉱山調査に従事した折に、最上光彦さんが長期出張でボーリングを担当してくれましたが、日本では真夏の8月(チリ―では真冬)に、休暇としてアンデス山中の有名なPortillo国際スキー場へ帯同して滑って貰ったこともありました。

 

また、斎藤仁さんに勧められて、救護隊の冬期訓練の八甲田山-田代平横断、酸ヶ湯温泉への一泊遠足の尻に付いて参加したこともありましたが、固定ビンディング靴のための靴ずれに悩まされながらも、樹氷林を進む爽快さや今も変っていないと言われる鄙びた温泉の千人風呂、に加えて当時名物ガイドだった鹿内仙人と写真を撮ったりしたことも忘れられない思い出です。

樹氷林を酸ヶ湯に向けて

   

 

当時の酸ヶ湯温泉の鹿内仙人と建物

   

 

また、当時大相撲の時期になると青森市に勧進元のある星取り協会に会費を払うと翌日の取組票が配られ、勝敗予想を返送し、成績が良いと場所後に商品が貰える遊びがあり、四股名を実習テーマから“粗面岩”と名乗って、毎夕方紫雲寮のカウンターに同好者が集まり、未だ山内に少なかったテレビを囲んで和田山善之さん達とワイワイ言いながら相撲中継を見たものでした。たまたま星取りが好成績で関脇のタイトルと商品を貰った記憶があります。

 

東北山中の大自然の中にある上北鉱山一帯の山野を歩きる事が出来たお陰で、緑ひたたり山菜に富む夏、急速に色づく紅葉とキノコの秋、白一色の雪の冬、湿地の雪解けの中に咲き出す水芭蕉や山裾のこぶしの花の春、等々の明確な自然の四季を体験したのも貴重なことでした。

 

今、改めて振り返ると沢山の記憶の断片が走馬灯のように頭の中でグルグル回り出して切りがありませんが、昭和35年の3月末に実習が明けて栃木県の木戸が沢鉱山へ転勤となりました。

 

この冬は積雪が比較的に少なかったため、本社へ転勤の白根沢亘さんと共に事務所前で森沢一平所長の万歳三唱で皆さんに見送らて雪上車で奥の沢越えで青森に向いました。途中で雪の状態が悪くて引き返す話もありましたが、万歳三唱の手前恰好悪く、無理やりに何とか青森に着きました。

夜行列車で仙台で白根沢さんと別れて東北線の矢板駅に着き、前年上北から転勤で来ていた敷波博さんの出迎えを受けて事務所に到着しましたが、同鉱山は関東平野の水田地帯の縁辺にあり、裏作の麦畑が青々と拡がっている中の未舗装の矢板街道を走った砂埃りで一張羅の紺の背広が真っ白になって、雪の上北から一晩で別世界に来た感じでした。

 

その後、67歳で旧日本鉱業(株)を完全リタイアするまで、国内では栃木県日光鉱山・福島県田代鉱山の外は殆ど日鉱探開()での海外勤務と出張業務でしたが、国内外の何処に居ても、相手は外国人をも問わず、長年恙無く仕事や生活が出来たのは、上北鉱山で身に付いた一山一家に始まるチーム意識が常に潜在していたお陰と思っています。

 

時代の推移と共に社会情勢や人の考えも大きく様変わりして、古い人間の古い考えは最早通用せず、しかも上北で足腰を鍛えたのにも拘わらず加齢とともに脊柱管狭窄症で歩行もままならぬ老残の身ですが、去ってから55年を経た今日でも上北鉱山に関わる人達との絆だけは大事にしたいと「上北鉱山の会」にしがみついている次第です。幸い上北生まれ上北育ちの次世代の方々が参加してくれて嬉しく思っています。