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学生時代に往き来した上北鉱山

金塚 魁

私が大学2年の昭和42年、父は本社から上北鉱山に転勤となった。このため留学生及び子弟の寮であった若竹寮に入寮することとなった。親と離れての生活に一抹の不安はあったが、むしろ親の監視の目からはずれることへの期待が大きかったことを覚えている。友人や娯楽もない上北は必ずしも魅力的ではなかったが、せめて夏休みや正月ぐらいは親に安心してもらおうと行ったものである。父が乗車券を手配(今思えば親心に感謝)してくれた寝台列車の「ゆうづる」や「はくつる」で12時間近くかけながら、上北まで辿り着いた。夏の帰京の折は、下北半島の恐山や仏ヶ浦などに立ち寄ったりして、半ば旅行気分であったことも上北に向かわせたのかも知れない。

夏は避暑地に来たようで快適だったが、冬はとにかく想像以上に大変だった。山の斜面の社宅は、豪雪にすっぽり埋まり、昼でも夜のように暗く、電燈を点した生活だった。居間には薪ストーブが常に燃え、母はストーブの上に鍋を載せ、コンロ代わりに煮炊きに利用していた。物置には一冬過ごせるための燃料の薪がうず高く積み上げられていた。吹雪いた翌朝は出入り口の扉がなかなか開かず、何とかこじ開けて、社宅の前の雪掻きをさせられたことも懐かしい。冬はまさに陸の孤島、鉱石を野内に搬出する鉄索の戻りに生活物資が搬入され、これが社員家族の命綱だった。当時この鉄索が故障で遮断にでもなったらどうなるのだろうと思うとゾッとした思いがある。冬に帰京するときは、上北から唯一の移動手段である鉱山所有の雪上車に乗り、東北本線の千曳の駅に出た。雪上車の乗り心地は最悪、上下左右に揺られ、船酔いになったと同じ状態で、じっと堪えていたことを鮮明な記憶として残っている。

大学4年の春、若竹寮の寮長の奨めもあって、日本鉱業の入社試験を受けた。そのときの重役面接で、「お父さんが勤務している上北鉱山のようなところに赴任が決まっても大丈夫か?」と質問された。「冬も含め何度か行ったことがあり大丈夫です」と答えたことも印象が良かったのか解らないが、採用内定となった。父がまだ上北鉱山に赴任中であった昭和45年の春に日本鉱業に入社し、新入社員研修後、最初の赴任先は三日市製錬所との辞令を受けた。正直その時は上北みたいな山奥の鉱山でなくて本当に良かったと、胸をなでおろし安堵したものである。

父は約4年間の上北勤務後、本社に転勤となったが、昭和56年に59歳でこの世を去った。残された母は今年で94歳になるが、体力の衰えは著しいものの健在で、上北時代のことを懐かしく思い出しながら語ることがある。冬は厳しい生活だったこと、対照的に楽しかった山菜取りや弘前に桜を観に行ったこと、ねぶた祭りのことなどを懐かしく思い出すように語る現在です。