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上北鉱山の沢山の想い出

菊池紀子

上北鉱山には沢山の想い出があるが、今思うのは雪の多さで、あの時は他を知らず生まれて住んで居たから当たり前で過ごせたと思うが、今なら絶対無理と思う。

冬の上北:中学3年の時、ストーブ当番があり、早く行ってストーブに火をつける係で、その日は忘れもしない猛吹雪であった。大坪台2区に住んでいたので、冬の通学路は高森から大坪台1区の坂を登り学校へ行く。皆が来る前に教室を暖めておこうと思い、かなり早く家を出たが、大坪台1区の坂はまだ誰も歩いていなかったので道が無く、積っている雪を手でかきわけるが、なかなか前に進まない。早く出て来た意味が無くなる焦りと前からの吹雪で息が出来なくなり、「私、死ぬんじゃない?」と思った事が、今でも雪を見る度に思い出します。他に幼稚園、小学校と、大坪台からの遠距離を良く通ったものだと・・。除雪車と遇うのが怖くて、慌てて脇の雪に登り、滑り落ちたらひかれてしまうと、心配性の私は除雪車に遭わないことを祈ったものでした。

週末は、方向が一緒の同級生達とスキーに乗って楽しく帰る。でも月曜日はスキーを担いでの登校に大変で、事務所に通勤の父に担いで貰った時もあった。

朝、えしゃろの戸を開けると真っ白の壁で、中に雪を落として外に出て雪片付け。窓がふさがり、開けるのに思いっきり雪を放ると高森の風呂屋の屋根まで転がって行くので、途中に穴を掘り転がって行かないようにしての除雪。

家の前の山からスキーをすると、勢いついて家の屋根まで滑って来る。父がジャンプ台を作り兄が練習していた事。兄は毎年スキーを買って貰い、セーターと帽子のお揃いを母が手編みする。兄のお下がりが私に来て、中学2年の時、スキーズボンの前チャックは恥ずかしかった。スキー大会・・父から頑張れ、負けるなと応援してもらい張り切った事。

父兄参観日:小学6年の時、毎回早く来る母が留守で今日は来ないんだと寂しく、皆の父兄が来ている後ろを見たら教室の入り口に父が居た。びっくり!しばらくして見たら父はもう居なくて、時間を貰ってわざわざ来てくれたのが嬉しく涙が出た。父の参観は、この時だけで忘れられない嬉しい想い出になっている。

遠足:良くぞ歩いて田代平まで!中学2年の時、母が実家の七戸に行って留守で、父がソフトボール位の大きなおにぎりを2個作ってくれた。中には玉子焼き、鮭、紅ショウガ入りで、1個食べたらお腹いっぱいになった。

1個残したら悪いなぁ~と思っていたら、その日中村俊介先生の奥さんも留守で、昼の時間に先生が居なくなり皆が食べ終わった頃戻って来たので「もしや先生お昼持って来てないのでは?」と「先生食べませんか?」と差し出したら、先生はおにぎりにかぶりつき、アッという間に食べて「ありがとう!助かった!」と、私こそ食べて貰って「ありがとう!」でした。

薪運び:中学の時、父が体調を崩し県病に入院、姉兄は鉱山に居なくて、薪運びに母が困っていたので「私に任せて」と言い、同級生にそのことを話したら「俺が行ってやる」と中川幸夫君、重い物を持った事が無いであろう中村直樹君も「僕も行く」と。2人が来てくれ、本当に有難く助けて貰った。中川君がクラス会に参加した時、話したら記憶に無いとの事でしたが、してくれた人は忘れていても、して貰った方は忘れず感謝です。

中学2年の時、米内山校長先生が朝礼で私達の学年を「男女仲の良いクラス」と褒めてくれたが、本当にそう思う。40才に初クラス会をして45才から3年毎に開催している。私は最初から携わっているが中学時代話した事の無かった人、私が勝手に怖くて話さなかった人の優しさ、気遣い、思いやりに触れ、今では近況、情報交換をしている。

振り返ると、私は若い時から何かある度に同級生に励まされて来た。そして今、人生のパートナーが中学時代話をした記憶が無い同級生で、私自身も驚きだが、同級生達も驚きだった。鉱山の想い出話をして幸せに暮らしている。私にとって上北鉱山は、生まれ育ち、人生に関わりのある故郷になっています。両親に感謝です。

上北鉱山掲示板:私は掲示版に感謝!!」掲示板がきっかけで2学年先輩の橋本利勝さん、杉山茂さんにお会い出来てお祝いして頂きました。また、H25年には小学2年担任の大好きだった石橋昌子先生に、息子さんの投稿のお陰で52年振りに再会が出来ました。

年を重ねたら懐かしく思える故郷上北鉱山情報を見ているだけでは無く投稿で交流の輪が広がって欲しいと願っています。    43年度卒(S28生)(旧姓日野澤)