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上北鉱山の想い出

後藤 正教

青森県の野辺地職業安定所で入社試験(試験官は森川さんと中島さんと記憶)、学科試験が終わり、身体検査があって、面接が行われました。出身が浅虫の隣町の平内町夏泊半島でしたので、試験官から特に「大羽イワシ」について聞かれたこと、合格通知が卒業式終わっても無く、鉱山に赴任する間際に連絡を受けたことなどを記憶しています。

3月中旬に乙供駅に降り、そこから確か午前10時頃かと思いましたが、「馬橇」に乗って途中2か所くらいで休憩して、上北鉱山に着いたのが薄暗く午後5時過ぎ?だったと思います。周りの風景が見えず、どこに来たんだろうと心細く感じたのを覚えています。それから事務所に入り、清交寮に連れていかれて、馬橇仲間5人で「たこ部屋」でも来たのかなーと話し合ったものでした。

入社した昭和31年の「上北ニュース」には、まだまだ工事が盛んで

*選鉱設備の拡張合理化

*かっ鉄鉱の採掘

*アパート建設

*田代隧道の掘削

等が載っていました。入山翌日から坑内等の見学、鉱山の概況等の教育があって、配属されたのが「選鉱課」の受入れで、坑内から鉱石を積んだトロッコを受け、そのトロッコを線路の上でひっくり返し、鉱石を落として鉱舎に入れる作業でした。

試用期間半ば頃、突然、選鉱課事務所配属を命じられて、それまで昼の弁当が足りないくらいの重労働から、ハンザ(各員の出欠を確認、各担任が管理)から出勤簿の整理をしたり、選鉱の事務の雑用だったりでした。当時吉田担任と高木女子社員が事務に居り、担任が異動した後は選鉱成績を作れるようになりました。

課長会議に呼ばれて、坑内から出た採鉱課の品位と選鉱課の品位が違うことを、当時の橋口課長から何故かとよく聞かれたものでした。採鉱では塊のサンプルで、選鉱はマイナス200メッシュにした細かいサンプルを自動サンプラーで採取したものを基にしているので精度の面から当然と回答すると、生意気だとよく言われました(鉱山ではこの品位が収支や存続のキーポイント)。

昭和37年1月、総務課勤労係に配属されて給料計算を主にやり、37年の退職者が大勢出たときは、年金手帳の紛失に伴う再発行の交渉のため八戸社会保険事務所に何回か出張したり、事務所2階屋根裏の賃金台帳を探したり(再発行の証拠)、38年5月、船川転勤までお世話になりました。

寮では、戸を開ければ「クラブ」で、宴会の残り物の「燗冷まし」があったり(これは内緒かな)、勇ましい学卒がおり、障子を次々と骨ごと破かれて後に勤労に呼ばれたり、寮の屋根の上にスキーで行けたり、家に入るとき玄関に雪の階段で入る雪深い生活、寮の部屋の山側の戸を開ければ、まだ冬の名残の雪の空洞、寮の人達と「高森山」へ硬い雪の上を歩ける春のピクニック、田代平のつつじの庭園、元湯温泉での入浴、田代平と坪川への「イワナ釣り」(イワナは最初5回くらいが坊主で、難しい釣りでした)。また、坪川で釣りの最中にラジオで秋田の夏井昇吉さんが世界柔道の王者になったことを知り、のちに夏井さんと公衆の温泉でよく出会ったものです。

仲間と春の八甲田・鳥海山登山(秋田に転勤してから回数がかなり増えた)、そのほか数えきれない思い出を、7年間でしたが経験させてもらい、入社前にこんな山奥に鉱山があり、数多くの人が住み、生活しているとは想像もしていなかった。

上北は自然、人情、職場、生活の環境は良く、ここに住んでいる人がみな家族という社会でした。

(参考―上北鉱山、船川製油所、本社

潤滑油部、秋田備蓄で42年間勤務)


        <中の沢の冬の夜景>