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映画館と上北鉱山

工藤 俊

遠いむかしテレビがあらわれる以前に、〈映画〉は家族と子どもたちにとって、おおきな娯楽であった。子どもむけの映画だけでなく、小津安二郎や溝口健二・成瀨巳喜男・増村保造と云った名監督たちの作品を、幼少のころから無意識に家族とともに鑑賞したことが、のちにわたくしが映画好きになることに繋がった。

ものごころつき、映画は〈監督〉で観るもの、と意識するようになり、監督小津安二郎の作品を観つづけていたとき、「小早川家の秋」(1961年制作)を鑑賞していて、驚愕したのだった。

作品のなかで焼き場の煙突から出る煙と、地蔵尊に群がるカラスの映像があり、どこかで観た記憶が鮮明によみがえったのだった。上北鉱山にあった「焼き場」は子どもたちにとって、学校への登下校などの途中でそばを通るとき、いわゆる〈怖い〉場所だった。その記憶と同時に、小学校グラウンド下にあった鉱山の〈映画館〉で、その〈映像〉に畏怖したことをおもい出したのである。

同様に成瀨巳喜男監督の「鰯雲」(1958年制作)の終局場面で、雲の映像の〈美しさ〉を記憶していたのだが、子どもごころに、あの〈雲〉がいわゆる〈鰯雲〉というのかとの記憶もあり、のちにやはり有能な監督たちが紡ぎだす場面〈シーン〉が、いかに記憶に残るものなのか、ということにもおもいをいだいた。

「鰯雲」はいまで云う〈不倫〉がからむ作品であり、当時10歳に満たないわたくしは、もちろんその内容にまではおもいがいたってはいない。

さらに記憶をたどれば、増村保造監督の「からっ風野郎」(1960年制作)がある。おそらく新進気鋭の作家三島由紀夫が主演とのことで、家族とともに鑑賞したと記憶している。過日、観なおしてみると、落ち目のやくざを三島由紀夫が演じているのだが、50年近く以前に観た作品だけあって、三島由紀夫演じるやくざと喘息もちの殺し屋の役を違えて記憶していた。最後に三島扮するやくざがエスカレーターで殺しにあう、大仰にえがかれた場面だけは鮮明に覚えていた。映画監督増村保造は、女優若尾文子を多用したことや、そのスピーディな場面の展開で知られている。

周知のように小津安二郎監督の名作「東京物語」(1953年制作)は、2012年イギリスの「サイト・アンド・サウンド」誌で、世界の数百人の映画監督たちの投票で、世界映画史上ベストテン1位になった。(この評価はここ10年うごくことはない。)

先にあげた成瀨巳喜男監督も、かの「浮雲」(1955年制作)などによって、つとに世界的に知られた名監督でもある。

こうして小学校のグランド下にあった上北鉱山の「映画館」についておもいを巡らしていると、当時10歳前後であったわたくしを、何を目当てに映画館に通わせたのかは、おそらく日活のアクションものや、東映の時代劇であったことがおもい出される。

しかし、やはり名画と云われる作品の場面、場面(シーン)はおさなごころにも記憶に残るものなのだ、と云うことをあらためて実感させられている。

亡き父母のおかげもあって、ここ何回か「上北鉱山の会」の実行委員会に出席している。会合のなかで実行委員のひとりである佐藤宏司様が、その映画館関係で仕事をされていたとのこと、また福利・厚生関係の担当でもあったとのことでもある。映画など文化的な理解者もいなければ、こう云ったプログラム編成も成り立たなかったろうとのおもいもある。

冬は殊にあの雪深い場所にあった鉱山の「映画館」を、時おりおもい出しながら、齢を重ねてもまだ、池袋・神保町・京橋・新宿などに、かつての名画や新作映画を観に脚を伸ばしている。