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雪また雪、そしてまた雪

白根澤 亘

私が、昭和31年(1956年)8月 東北線の「乙供駅」から野辺地営林署のトロッコ軌道に乗って上北鉱山の入り口である「坪川」に着いたのは午後もだいぶ遅くなってからだ。坪川には鉄筋3階建てのアパートが建っていて、ヤマは想像以上に開けていると期待させるものがあった。出迎えの警務の人に、山神祭で呼ばれた“花火師”と間違えられて、その足で着いた清交寮の面々の爆笑を買った。

同時に赴任した寺江さんは「探査課」 中藤さんは「採鉱課」と所属がはっきりしていたが、私は、まず「経理課」の採鉱本坑係の計算方として、毎日払出伝票の集計に追われ、ついで「総務課」の勤労係に配属された。翌32年の“全鉱離脱問題などで、理屈っぽい組合長の中野民夫さん、愛すべき高松 敏さんなどを相手に、青ニ才ながらもそれなりに苦労した記憶が残っている。

 

・雪が大好き

私の生まれ故郷 福島市は、周囲を山に囲まれフェーン現象が起きやすいので、夏は前橋や熊谷などと並び称される全国屈指の「暑さ処」であり、冬は雪が少ない割に奥羽山脈からの寒風が吹きすさぶところである。小さい時から冬になると、竹スケートや長靴スキーで遊んでいたので、寒さには比較的強く、雪は大好きであった。高校時代には、磐梯山での国体に出場、大学時代には山岳スキー部に所属し、吾妻連峰、蔵王などを根城に大いにスキーを楽しんだものだ。

それにしても上北の雪は凄かった。31年から4度の冬を過ごしたが、独身の気楽さもあって、雪の思い出は楽しいものばかりである。

 

・寸暇を惜しんで滑りまくる

学生時代のスキーは出かけるだけで金がかかるが、なんとかSAJ(全日本スキー連盟)2級の資格はとっていた。それなりに整地?されたゲレンデでのテストの結果である。

それが、この上北ではタダでスキーが出来るのだ。毎日お昼近くなると、事務所のわが机の下でスキー靴の紐を締め、昼飯もそこそこに選鉱場脇の斜面で滑る。幅が狭くかなりの斜度があり、転んでばかりいたが、楽しいものは楽しい。昼休み一杯滑りまくっていた。


山内スキー大会
雪庇の厚さを見よ!


33年 ヤマでSAJの検定があり参加した。検定委員長は三浦敬三さん、委員の中には、総務課の最上政彦さんがいた。決められたコースをそのとおり滑っただけで、ヤマの連中の体に染みついた実力派には及ばぬ“形だけの”1級に合格した。

(注)三浦敬三(19042006年)は、青森営林局を退職後、JSAの技術委員 その後70 ヒマラヤ、77 キリマンジャロ 99才にはモンブランをスキー滑降し、一躍世界に名を知られることとなった。

 

・寮の除雪の本当の愉しみ

「中の沢」の斜面に建っている清交寮の窓は、板を打ち付けて割れないようにしてあるが、屋根までの雪で昼でも部屋は真っ暗である。春先 谷側を除雪して板を取り外す。そうすると山側の雪が建物を押してきて、今にも潰れそうで不気味である。谷側の雪は谷に落とすだけでいいが、山側はそうはいかない。全員総出のスコップでのリレー除雪が始まる。汗びっしょりのあとの友と飲むビールこそが、除雪に精を出す本当に目的なのだった。

・雪上車の尻尾にくっ付いて

坪川と千曳の間は、馬橇から雪上車に昇格した。雪上車*の定員は10人位で、その後ろに自家製の橇をつけていた。ある程度スキーを操れる人はロープで引っ張られることが許された。私も坪川沿いの斜面をエッジングしながら下った覚えがある。

(注)コマツ製の雪上車は、まだ試作段階にあり、ましてや運転は未経験の者ばかり。実際には、10年後の第9次国際南極観測の極点往復で活躍した。

・八甲田ツアー

33年の春先だったか、施設課の上島副課長をリーダーに、有田先輩、山田昌幸さん、同期の中藤さんと八甲田にツアーに出かけた。「奥の沢」を経て、だだぴっろい「田代平」を黙々と歩き続けた。やがて右手に雛岳(1,240m)を、続いて高田大岳(1,552m)そして右手前方に大岳(1,585m)を見える頃になると、一体いつになったら下り坂になるのかとぼやきが出てくる。小休止*の後、「硫黄沢」を振り子のように右左とシュプールを残しながら、一気に「酸ケ湯温泉」へ。

「奥の沢」までの登り、最後の「硫黄沢」の降り以外は、ほぼ平坦な雪道だったといえる。片道15キロ。酢か湯温泉の前には、“文芸春秋“に紹介され有名になった鹿内老人がラッパを吹いて歓迎してくれる姿があった。そして湯上りにヤマメの粕漬けを焼いての一杯が忘れられない。

北八甲田の山々


 

 

(注)“小休止”の際、高田大岳からかなりのスピードで滑ってくる人影があった。我々の前に雪煙りをあげて止まった二人連れは、三浦敬三、雄一郎親子だった。上島課長は面識があったので、暫くスキー談議に花を咲かせた。息子の雄一郎さん(2013 80才で3度目のエベレスト登頂を果たすなど余りにも有名である)は、その頃は母校北海道大学の獣医学部の助手をしていたが、すでに自らの滑りを“ドルフィン滑降”と称していた。

 

35年(1960年)の春、本社に転勤となる。木戸が沢鉱山に転勤の掛川さんと事務所前を雪上車で青森に向け出発。奥の沢を越えるときには、4年間のいろいろな想い出が走馬灯のように頭を駆け巡った。

それにしても、上北の春は素晴らしい。汚されていない純白の残雪、清冽な雪解け水、蕗の薹など山菜の新芽、木々の新緑。これらが同じ舞台に同じ時に出現する。長い厳しい冬の夜明けに、これほどの天の配剤は無かりしものをと思う。

そのご、本社と三日市製錬所勤務を経て、44年設立間もないアブダビ石油に出向し、“北の国”から一挙に40度を超す酷暑の砂漠で過す羽目になった。

日鉱復帰後 電子材料事業の5年に続く17年間 関係会社を渡り歩き66才で引退したが、社会人となった最初の4年間 上北の自然と人々に触れ、そして未だにその頃の人々と交遊を重ねることが出来るのは、私のとって得がたき財産であると思っている。