雪また雪、そしてまた雪
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山内スキー大会 雪庇の厚さを見よ!
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(注)三浦敬三(1904~2006年)は、青森営林局を退職後、JSAの技術委員 その後70才 ヒマラヤ、77才 キリマンジャロ 99才にはモンブランをスキー滑降し、一躍世界に名を知られることとなった。
・寮の除雪の本当の愉しみ
「中の沢」の斜面に建っている清交寮の窓は、板を打ち付けて割れないようにしてあるが、屋根までの雪で昼でも部屋は真っ暗である。春先 谷側を除雪して板を取り外す。そうすると山側の雪が建物を押してきて、今にも潰れそうで不気味である。谷側の雪は谷に落とすだけでいいが、山側はそうはいかない。全員総出のスコップでのリレー除雪が始まる。汗びっしょりのあとの友と飲むビールこそが、除雪に精を出す本当に目的なのだった。
・雪上車の尻尾にくっ付いて
坪川と千曳の間は、馬橇から雪上車に昇格した。雪上車*の定員は10人位で、その後ろに自家製の橇をつけていた。ある程度スキーを操れる人はロープで引っ張られることが許された。私も坪川沿いの斜面をエッジングしながら下った覚えがある。
(注)コマツ製の雪上車は、まだ試作段階にあり、ましてや運転は未経験の者ばかり。実際には、10年後の第9次国際南極観測の極点往復で活躍した。
「奥の沢」までの登り、最後の「硫黄沢」の降り以外は、ほぼ平坦な雪道だったといえる。片道15キロ。酢か湯温泉の前には、“文芸春秋“に紹介され有名になった鹿内老人がラッパを吹いて歓迎してくれる姿があった。そして湯上りにヤマメの粕漬けを焼いての一杯が忘れられない。
北八甲田の山々
(注)“小休止”の際、高田大岳からかなりのスピードで滑ってくる人影があった。我々の前に雪煙りをあげて止まった二人連れは、三浦敬三、雄一郎親子だった。上島課長は面識があったので、暫くスキー談議に花を咲かせた。息子の雄一郎さん(2013年 80才で3度目のエベレスト登頂を果たすなど余りにも有名である)は、その頃は母校北海道大学の獣医学部の助手をしていたが、すでに自らの滑りを“ドルフィン滑降”と称していた。
35年(1960年)の春、本社に転勤となる。木戸が沢鉱山に転勤の掛川さんと事務所前を雪上車で青森に向け出発。奥の沢を越えるときには、4年間のいろいろな想い出が走馬灯のように頭を駆け巡った。
それにしても、上北の春は素晴らしい。汚されていない純白の残雪、清冽な雪解け水、蕗の薹など山菜の新芽、木々の新緑。これらが同じ舞台に同じ時に出現する。長い厳しい冬の夜明けに、これほどの天の配剤は無かりしものをと思う。
そのご、本社と三日市製錬所勤務を経て、44年設立間もないアブダビ石油に出向し、“北の国”から一挙に40度を超す酷暑の砂漠で過す羽目になった。