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上北鉱業所(上北鉱山)休止時の想い出

鈴木 幸男

上北鉱業所(以下上北鉱山と記す)の休止となってから、時は流れて42年が経過した。顧みて昭和46年4月27日、総務課労使窓口担当の太田さんより昨日、中央労使協議会において「上北鉱山の操業変更の申し入れ」があった旨、労働組合に伝達された。

当時私は労組書記長として専従しておりましたので早速委員長はじめ、執行委員全員に連絡をとり、その日の夕方緊急執行委員会を開催、予知がなく突然、寝耳に水の問題だけに議論は百出し、荒れた会議となりましたが、ともあれ、具体的な真相を把握することが先決ということとなり、翌日箇所労使協議会開催の手続きをとり協議会の開催となりましたが、会社の説明は、一部操業の変更の申し入れがあったこと、変更後は操業要員を残し、余剰となる人員の取扱いについては詳細な情報、連絡は入っていないということでありました。

この協議会は、かなり厳しい応酬となりましたが労使共に情報を共有し、この難局を労使一体となって取り組むことを確認し閉じました。ほどなくして日鉱連から「4月の中央労使協議会において上北鉱山の露天掘り、坑水除害要員を残し大幅な操業変更の申し入れ」があり、これから日鉱連としての取り組みについては組織内部に独自に設置されてある「鉱山特別対策委員会」において、内容の究明と今後、現地の実態把握、疑問点を解明する段階なので中央労使の動向を見守ってほしいこと、加えて、軽率な行動はくれぐれも自重してほしいという電話連絡があった。この自重の要請は、今思えば昔から上北鉱山といえば頑固一徹の気風があると他から見られていたため、暴走のないようにということだったかもしれません。

5月下旬、日鉱連は会社に対し、上北鉱山の操業変更申し入れ了承の回答をし、続いて6月9日に開催された緊急代表者会議において、上北鉱山の操業変更について確認決定された。

これを受けて現地上北鉱山の諸問題に対応する「労使による対策委員会」を設置し、一つ一つの問題に取り組むこととなりました。

最初に問題となったのが地元地域、自治体への対応であった。今まで鉱山からの受益が大きく、村財政は鉱山に依拠している現状から操業変更(実は閉山と等しい)内容をダイレクトに発表し、説明することは地元に大きな混乱をもたらすことと、鉱山に働く者の動揺を避けるため、個々人の受け入れ先の確定作業が始まる8月頃まで詳細発表を控え、従来どおりの生産を継続することとしました。この時期(6月中旬)天間林村の村議会選挙公示があり、上北鉱山は「何にも変わったことはありません」という内外共に知らんぷり作戦をとり、施設の高砂さんを上北鉱山の候補者として選挙に送り出し、結果は高位当選を果たしましたが、その時の気持ちは喜んでよいのか、申し訳ないという気分も絡みあって苦い想い出となっております。高砂さんも当選2か月少々で議員を辞職され、落選の次点者が繰り上げ当選となり、当人自身が鉱山にあいさつに見えられましたが、上北鉱山休止を喜んでくれた唯一の人でした。

中央労使で10月1日から操業変更を実施することの決定もあり、上北鉱山はご承知のように10月には降雪の時期で、これを過ぎると身動きがとれなくなることも考慮し、操業変更後に残る従業員11名を残し、転出先の選定が集中的に行われました。本社から人事担当の藤井さん他1名と総務の皆さんのご尽力のお陰で、鉱山で臨時員として働いていた者、商いをしていた者も社員として登用され、働く者全員が無事鉱山を退去できたことは熱い想い出となっております

鉱山からの本格的な転出は8月中旬頃から始まり、青森交通の特別仕立てのバスが連日運行され、見送る人、見送られる人、別れに涙を流す情景は今でも胸の締め付けられる思いです。また、長屋住宅は夕方になると1軒、1軒灯が消えていく寂しさ、やるせなさは、一生私の脳裏から離れることはないのかもしれません。