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昼の弁当は屋根の上
髙砂 和男

私は、昭和33年、青森県七戸町の上北鉱山中学校卒業で、当時、2クラス71名の人員でした。終戦後の食糧難の時代に育った我々は、いつもひもじかった。家の食器棚の中にある調理用の砂糖をじかになめて母によく怒られた。父は鉱山の選鉱課勤務で交代制のため、深夜に吹雪の中を出勤していったのを覚えている。

厳しい地獄のような冬は中学生の我々でも辛い耐え難いものでした。それだけに春の雪どけの頃の土の香りとマンサクやコブシの花を見つけた時は、小躍りして喜んだ。

そんな中、昼の弁当は本当に楽しみでした。中学3年の春先のことですが、長く閉ざされた雪地獄から解放され、周囲には未だ雪が残っているのですが、学校の一部の屋根が見えだすと、皆で屋根上に出て、日なたぼっこをしながら弁当を食べるのである。弁当は教室の石炭ストーブの上に吊るされている金網の上で暖めてあるのでホカホカだ。授業中、この弁当のタクワン臭が教室中に漂うが、食い気の方が増さるので気にもならなかった。

屋根の上で弁当

私の弁当はジュラルミンのドカベン、中味はのりを敷きつめた上に醤油をかけたのりベンで塩鮭の切身とタクワン、時々、梅干か紅ショウガである。ご飯に時々、鉱石が混じっており、ガリッと噛んでしまう、母に文句を言うと「鉄索で米を運搬するので、どうしても細かな鉱石が混入するんだよ。」と言っていました。

雪がとけて、屋根上の弁当が終わると、今度は学校の裏山に出て新緑のむせるような草むらや木の下で食べるのです。時々、カメ虫の集団に遭い、ご飯の中に入られてしまう、「わー、ヘタレ虫にやられた。」と大騒ぎしながら、このヘタレ虫と闘った。食後は山の沢に入り山菜取り、ヘビ、カエルと遊び、ハチに刺されたりしながら教室に戻った。このような八甲田山の麓の大自然の中で厳しさや楽しみを学び、自由奔放に育ったことが私にとって忘れられない想い出である。                  昭和33年卒業)