案内板  目次



私の上北鉱山

高野 栄吉

どこから「私の上北鉱山」をスタートさせようかと迷っていた。鉱山に来る前、私は郷里の市役所に勤務していて、1年が過ぎた昭和25年の春、故郷に別れを告げたのです。辛い思い出であった。

養母に連れられ東北本線乙供駅に下車した。さびれた寂しい駅。トロッコ列車に乗り継ぎ、ガタゴトと、どの位の時間がかかったのか覚えがない。そこから「私の上北鉱山」が始まったのです。

二つ割りの家で、隣には主任さんが住んでいた。私は3畳間に押し込められた。

どうにか職を得て、奥の沢から総合事務所へ通勤した。冬期は全身がすっぽり埋もれてしまう程の豪雪で、長靴スキーではどうにもならない。やむなく寮に入った。

上北鉱山の最盛期の人口は4,000人にも達したとのこと、外部から隔離された一つの町村を成していた。そして時は流れていった。

鉱山の資源には限りがあり、縮小の風が吹き始めたはしりの風に乗って、私は仙台事務所へ転出した。上北鉱山在籍は8年ほどであった。仙台事務所は鉱山の出先機関としての役割のほか石油販売の業務を担っていた。会社の石油業務の拡大に伴い、「営業所」、「支店」と名称が変わっていった。

その後、私は本社に転出、時を経て再び仙台事務所に移った。そのころ上北鉱山は既に休止していた。当時、当局(鉱山保安監督部)による休廃止鉱山の鉱害検査が定期的に行われていた。ある時、当局による上北鉱山の鉱害検査が実施されるとの情報を得て、検査官に同行した。ゴーストタウンとなった上北鉱山、なんとも見る影もなかった。

検査官が上北鉱山坪川近辺の採水を行っていたときのこと。そこから少し上流地点で大きな切り株に巨大キノコを発見したのです。キノコのお化けである。両腕で抱えきれないほどの大きさであった。嬉しさのあまり舞い上がったのです。正にその名に相応しい「舞いタケ」を実感した瞬間でした。

上北鉱山は私を大きく育ててくれた。そして夢の青春時代を過ごした思い出いっぱい詰まった感謝の「私の上北鉱山」なのです。