高森部落の思い出
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私が5歳のとき、5軒長屋の脇で父親と妹 律子2歳 |
《越田のばばちゃんが出た~事件その1》
多分、私が6歳位の頃、近所で口が煩くとても怖かった越田さんのばばちゃんが亡くなった時でした。部落の主婦が総出で通夜のお手伝いに出かけていて、5軒長屋の私の家で私の兄弟3人と小山内さんの兄弟3人が留守番をしており、6畳2間の奥の部屋で襖を締めた状態で、折りたたみ式の卓袱台でオハジキをしていたら、不思議なことにいきなり4枚全ての襖が次々と卓袱台の方に倒れて来ました。(後で皆に確認をしましたが、誰も襖にぶつかった覚えがないとの証言でした。)
その時、姉(当時6年生)が『越田のばばちゃんが出た~』と叫んで、皆で卓袱台の下に先を争って潜ろうとした事件がありました。
実は、この部屋は長谷川家が入る前は、越田さんのばばちゃんが入居していたとの事でしたので、お別れに戻ってきたのかも?
《越田のばばちゃん火の玉事件その2》
越田の婆ちゃんが亡くなり、2軒住宅の片方で通夜が行われており、隣の西野さんの家で姉(則子)と姉の友人で一つ下の錦子さんと私の3人で留守番をしていた時のことです。
ストーブの置いてある6畳の部屋の卓袱台で話をしていたら、窓に直径5~10cm位のオレンジ色(黄色に近い?)の火の玉が、3~4個くらい浮遊しているのを私が最初に発見し、2人に「ほら火の玉が見えるよ~」と叫んだところ、2人が「ほんとだ、火の玉だ」と震えて固まってしまった?
3人一緒に見えたので間違いなく「火の玉」で、火の球は存在しているのだと今も信じています。
《高森野球チームと佐々木和哉さん》
私が野球を始めた話をする際、どうしても外せない存在が、同じ部落で4年先輩の佐々木和哉さんです。
自分は小学校5年生から軟式野球をやり始めたのですが、当時和成さんは心臓が悪く、激しい運動が出来なかったのですが野球がものすごく好きで、当時としては珍しかったベースボールマガジンを毎週購入しており、そのころから話題になっていた立教大学の砂押監督、選手の長嶋茂雄、杉浦忠、本屋敷錦吾の大ファンでした。
その後、長嶋選手が巨人に入ったのをきっかけに、私は今でも巨人ファンです。
和哉さんは、病気で中学校の野球部に入れなかったため、高森部落で我々小学生を集め、監督になって高森部落にあったグランドでほとんど毎日練習を行い、シート打撃では大学ノートに成績を付けて、各自の打率を伝えながら私たちに興味を持たせ指導して頂きました。そのお蔭で他の部落との対抗試合での勝率が良かったと思います。
その当時の私(ピッチャー)のユニホームは、母親の手作りで靴は未だゴムの短靴でした。また、おもちゃなど買ってもらえない時代でしたが、父親から当時としてはかなり高価な本革のグローブを買ってもらい、とても感激をして枕元において寝たのを覚えております。
佐々木和哉さんは中学卒業後、浪岡高校に入りましたが、高校1年の春休みに弘前大で心臓弁膜症の手術を行ったそうですが、残念ながらそのまま他界されました。感謝・合掌
『高森球団株式会社』 代表:佐々木和哉 創立:昭和34年 本拠地:高森野球場 事務所:青森県上北郡天間林村大字天間館一番地高森部落 監督:佐々木和哉 内野手:中村昭男 コーチ:佐藤岩男 内野手:小山内敏夫 コーチ:西野清 内野手:福田英樹 投手:長谷川勉(主将) 内野手:長谷川勉 投手:瀬川初男 内野手:三上喜一 投手:折戸谷繁 内野手:瀬川征 投手:福田英樹 外野手:折戸谷繁 捕手:東海林新一 外野手:田島征道 |
後列右側が監督の佐々木和哉さん? |
私(五年生)のピッチングフオーム 後ろで鼻を拭いているのは多分、瀬川 征 君 |
《結び》
思い出は語り尽くせないほどありますが、わずかなページを寄稿させて頂きました。
上北鉱山での生活は、私の人生の原点でもあります。帰る故郷はなくなりましたが、当時の諸先輩、同級生、後輩の皆さんとは、固い「絆」で結ばれており、心の中の故郷は、何時までも消えないで残っています。
「上北鉱山の会」の継続と諸先輩、同級生、後輩の皆様のご健勝をお祈りいたします。