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高森部落の思い出

長谷川 勉

《プロフィル》

昭和23年12月上北鉱山で生まれる

昭和36年3月上北鉱山小学校卒

昭和39年3月上北鉱山小学校卒

昭和42年3月県立青森工業高等学校建築科卒

昭和42年3月東急建設㈱に入社

昭和49年3月東京から仙台に転勤、同5月に結婚

平成23年3月東急建設㈱を退職

平成23年11月㈱ジャパンクリーン入社

平成25年8月病気のため、㈱ジャパンクリーンを退社

平成26年3月空調企業㈱入社、現在に至る

父母:長谷川勝(立石坑勤務のち交換手)、長谷川ソノ

家族:妻(上北鉱山小・中同級生旧姓佐々木幸子)

子供長男・長女(仙台在住)

孫2人(長女の娘)

趣味:家庭菜園、ゴルフ、渓流釣り、スポーツ観戦

 

《5軒長屋と薪ストーブ》

生まれてから小学校1年生まで(昭和30年)は、高森部落から大坪台にあった中学校に登る坂道の右手前にあった5軒長屋で生活をしていました。

当時の長屋は叩きの廊下があり、両サイドに共同の流し場と共同のトイレ(勿論汲み取り式)があり、出入口は中央に1ヵ所、トイレ側に1ヵ所の都合2カ所でした。薪ストーブの燃料は、年中廊下の片側にはいつも薪が積み上げられており、秋になると会社から各家庭に支給された薪を鋸で半分に切り、蒔き割りをしてから廊下に補充をしていました。

部屋は6畳2間、襖で仕切られていて、手前の廊下側の部屋に薪ストーブがあり、このストーブで暖房や煮炊きなど全てを行っていました。

父親は立石坑の最前線で削岩機の作業をしていたため、母親はこのストーブでほとんど毎日のように鉱石でドロドロに汚れた作業服を大きな鍋で煮込んでから、タライと洗濯板で四角い固い石鹸をゴシゴシ摺り付けながら挌闘をしていたのを思い出します。

当時の入居者は、流し場側から底田さん、鈴木さん、武山さん、鈴木さん(親戚)、長谷川家の5家族が入居しており、もちろん防音設備などは完備しておらず、プライバシー等は全くなくて、子供を叱る声や夫婦喧嘩のやり取りなどが飛び交っていて、お互いの生活が丸見えの時代でした。

 
  私が5歳のとき、5軒長屋の脇で父親と妹 律子2
   

《越田のばばちゃんが出た~事件その1》

多分、私が6歳位の頃、近所で口が煩くとても怖かった越田さんのばばちゃんが亡くなった時でした。部落の主婦が総出で通夜のお手伝いに出かけていて、5軒長屋の私の家で私の兄弟3人と小山内さんの兄弟3人が留守番をしており、6畳2間の奥の部屋で襖を締めた状態で、折りたたみ式の卓袱台でオハジキをしていたら、不思議なことにいきなり4枚全ての襖が次々と卓袱台の方に倒れて来ました。(後で皆に確認をしましたが、誰も襖にぶつかった覚えがないとの証言でした。)

その時、姉(当時6年生)が『越田のばばちゃんが出た~』と叫んで、皆で卓袱台の下に先を争って潜ろうとした事件がありました。

実は、この部屋は長谷川家が入る前は、越田さんのばばちゃんが入居していたとの事でしたので、お別れに戻ってきたのかも?

 

《越田のばばちゃん火の玉事件その2》

越田の婆ちゃんが亡くなり、2軒住宅の片方で通夜が行われており、隣の西野さんの家で姉(則子)と姉の友人で一つ下の錦子さんと私の3人で留守番をしていた時のことです。

ストーブの置いてある6畳の部屋の卓袱台で話をしていたら、窓に直径5~10cm位のオレンジ色(黄色に近い?)の火の玉が、3~4個くらい浮遊しているのを私が最初に発見し、2人に「ほら火の玉が見えるよ~」と叫んだところ、2人が「ほんとだ、火の玉だ」と震えて固まってしまった?

3人一緒に見えたので間違いなく「火の玉」で、火の球は存在しているのだと今も信じています。

 

 

《高森野球チームと佐々木和哉さん》

私が野球を始めた話をする際、どうしても外せない存在が、同じ部落で4年先輩の佐々木和哉さんです。

自分は小学校5年生から軟式野球をやり始めたのですが、当時和成さんは心臓が悪く、激しい運動が出来なかったのですが野球がものすごく好きで、当時としては珍しかったベースボールマガジンを毎週購入しており、そのころから話題になっていた立教大学の砂押監督、選手の長嶋茂雄、杉浦忠、本屋敷錦吾の大ファンでした。

その後、長嶋選手が巨人に入ったのをきっかけに、私は今でも巨人ファンです。

和哉さんは、病気で中学校の野球部に入れなかったため、高森部落で我々小学生を集め、監督になって高森部落にあったグランドでほとんど毎日練習を行い、シート打撃では大学ノートに成績を付けて、各自の打率を伝えながら私たちに興味を持たせ指導して頂きました。そのお蔭で他の部落との対抗試合での勝率が良かったと思います。

その当時の私(ピッチャー)のユニホームは、母親の手作りで靴は未だゴムの短靴でした。また、おもちゃなど買ってもらえない時代でしたが、父親から当時としてはかなり高価な本革のグローブを買ってもらい、とても感激をして枕元において寝たのを覚えております。

 

佐々木和哉さんは中学卒業後、浪岡高校に入りましたが、高校1年の春休みに弘前大で心臓弁膜症の手術を行ったそうですが、残念ながらそのまま他界されました。感謝・合掌

『高森球団株式会社』

代表:佐々木和哉

創立:昭和34年

本拠地:高森野球場

事務所:青森県上北郡天間林村大字天間館一番地高森部落

監督:佐々木和哉     内野手:中村昭男

コーチ:佐藤岩男     内野手:小山内敏夫

コーチ:西野清       内野手:福田英樹

投手:長谷川勉(主将)     内野手:長谷川勉

投手:瀬川初男       内野手:三上喜一

投手:折戸谷繁       内野手:瀬川征

投手:福田英樹       外野手:折戸谷繁

捕手:山田紀寿       外野手:瀬川初男

捕手:東海林新一     外野手:田島征道

 

 
 後列右側が監督の佐々木和哉さん?
 


私(五年生)のピッチングフオーム
後ろで鼻を拭いているのは多分、瀬川 征 君 
 

《結び》

思い出は語り尽くせないほどありますが、わずかなページを寄稿させて頂きました。

上北鉱山での生活は、私の人生の原点でもあります。帰る故郷はなくなりましたが、当時の諸先輩、同級生、後輩の皆さんとは、固い「絆」で結ばれており、心の中の故郷は、何時までも消えないで残っています。

「上北鉱山の会」の継続と諸先輩、同級生、後輩の皆様のご健勝をお祈りいたします。