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坪川と子供の頃の想い出

山口 鐵男

坪川というのは、山々から流れて来る大坪川と小坪川と呼ばれる川が合流して流れ下った川のことで、天間集落を流れて行く。大坪川は上北鉱山周辺で多くの沢からの水を集めて水量を増し、天間ダムに至った。小坪川と合流し、ここからは「坪川」となる。

上北鉱山の操業は昭和10年、硫化鉱床が発見されてからである。昭和11年、日本鉱業(株)は三井栄一氏から委託を受けて経営に当たり、本坑に続いて立石、奥の沢の硫化鉱床を発見、そして昭和15年、鉱区を譲り受け本格操業に入る。

上北鉱山は鉱物資源に乏しいわが国にとって貴重な存在であり、その果たした役割は大きかった。上北鉱山の最盛期は第2次世界大戦から昭和2030年代であり、その後は資源の枯渇、あるいは鉄の自由化とも相俟って急速に衰退していき、昭和469月に坑内採掘作業を中止。486月には露天採掘作業も休止し、事実上の閉山となった。採掘中止後は旧坑口の密閉工事、ズリ堆積場浸透水等、一連の鉱毒工事を実施し、主要工事は終えている。坑内湧水については、坑水自動化処理装置を導入し、現在も5人の職員が日夜中和作業に当たり、処理には万全を期しているという。

操業中、鉱毒のため死滅した川魚は、中和作業の進展により、ようやく魚影がみられるようになり、釣り人には隠れた釣り場があるとも言われる。

現在、上北鉱山へ行くには二つの道がある。一つは以前にガソリンカーが通っていた道、もう一つは青森市から田代平に出て山越えをする道である。かつて栄華の跡をたどって見ると、その荒廃ぶりと寂寞たる眺めに胸が締め付けられる思いである。

 

上北鉱山小学校の児童数・学級数の推移

(昭和40年度まで。天間林村史より)

上北鉱山メモ

(昭和32101日現在・事業所案内から)

精鉱の運搬架空索道により野内駅へ(19km.)、銅・亜鉛・硫化鉱。

人員・重量物の運搬乙供駅から上北鉱山までガソリンカーで28km、冬期は千曳駅から雪上車で運搬。

人口約3500人、住宅724戸、アパート18戸4棟、

 

年度

(昭和)

 学級数  学童数

年度

(昭和)

 
 学級数 学童数 
13年度  1  26  33年度 14(2) 653(35)
26年度  12  517  34年度 14(2) 654(35)
27年度 12(1) 489 35年度 14(2) 624(33) 
28年度 12(1) 496  36年度 14(2) 568(37)
29年度  13(1) 526 37年度 13 496
30年度  12(1) 556(25) 38年度 10 358
31年度 13(1)  608(31)  39年度  8 271
32年度 14(1)  611(40) 40年度  6 189
 小学校  ※( ) 内は奥の沢分校数値です    

公営住宅10戸、独身者寮2棟、共同浴場8軒、理髪店2軒、美容院1軒、生活用品供給所3か所医療内科、外科、産婦人科、眼科、歯科があり、従業員と家族は健康保険組合が負担、学校小学校1(本校、第2校舎、奥の沢分校)、中学校1、高校1(七戸高校上北鉱山分校)その他劇場、学生寮(青森市、東京都)。

以上、日本鉱業(株)上北鉱業所の歴史を思い出し記する。

青森市内に住んでいる山口鐵男