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上北鉱山の想い出

山田 幸男

1 はじめに

私が採用通知を受けて、上北鉱山へ入山したのは、昭和323月春分の頃でした。春分明けに鉱山の総合事務所2階会議室に集合しました。総勢20名を見て予想以上多勢だったので驚きました。内7名は鉱山従業員の子弟で、13名は外部からの採用者という。

その日から月末までの1週間、生活、業務、保安関係の教育を受けました(余談になるが翌年以降の採用者は多くても数名だったと思う)。

41日は大変よい天気で心地良い初出勤となり、探査に配属した猪股君と担任に連れられ、総合事務所と試錐見張に入社のご挨拶に廻った。総合事務所の2階の探査課に落ち着き、探査課長以下7名課員に改めてご挨拶が済むと、誰かが「山田の名が2人になったのでどうするか?」と声を出した。すると誰か、「今日来た山田君は『幸男君』だな」と云って、決まった。

探査課では田代隧道の貫通の話題が出て、2人現状を調査に行くことになった。「幸男君も行ってこい」との命令があり、早速頂いたばかりの調査用具を身に付け、最初の勤務に付いた。

鉱山には活気がみなぎっている。事務所を出ると、鉄索の勢いのある音、選鉱場破砕機のリズミカルな強い音、その先に進むと、エアーコンプレッサーが、「ノン・ノン・ノン・ノン」と心臓の鼓動のような音が休む事なく続く、まさに鉱山の心臓である。

いろいろ説明を聞いて来たが、前方に隧道口が見えて来た。まだ貫通したばかりで、作業員達が忙しそうに隧道口を出入りしている。この辺りの雪は多いようだ。鉱山の深い雪の下から何が現れるか、春が待ち遠しい。

話は変わり、鉱山外部からの13名の住まいは、清交寮に決まりました。当寮に入ってから2週間位過ぎた頃、とても良い話が伝わって来ました。それは今で云う「GWウイーク」に弘前城の観桜会に行こうと云うことです。しかも早朝に出て、鉄索の下の硬雪の上を歩き、滝沢の屈曲所から貸し切りバスで弘前公園まで行く。これが見事に実現したのです。

 

2 紫雲寮での私の出来事

我等13名は6か月間清交寮にお世話になり、10月の第一日曜日に紫雲寮へ移転しました。部屋は8畳間1部屋2名で総勢70数名と云う。

33年、34年は採用者数名で、34年の後半頃から、石油、工場、他鉱山への転出で、1人部屋が多くなりました。当然家具等を入れる者、立派なステレオを入れる者も出てきました。

私も1人部屋になり、ステレオを望んだが、立派な物は無理なので、ステレオ・キッドにし、資料を取り寄せて調べると、精々ミニチュア真空管4球のステレオ・キッドが身の程に合っているようでした。

早速取り寄せて箱から出してみた。ラジオと思われる部品2組、レコード回転機1台、スピーカー大・小各2個、スピーカーボックス2組、組立道具一式で部屋がいっぱいになった。「さて組み立てだ」。手解き出来る者が1人居た。紫雲寮後輩の小山田君に相談すると喜んで応じてくれた。

最初は図面の見方(図面の部品印や記号、配線記号等々)、ハンダの使い方、配線の使い方等々、お手本を見せる立派な手解さだった。

それでも1台目のラジオの組立に34か月かかった。これで、スピーカー1組とレコード回転機があれば、取り敢えずラジオ放送とレコードは聞ける状態になった。

ここで、ハタと気付いた。組み立てたこれらの固体を載せる台が必要だ。

幸い、紫雲寮の近くにある調度課に交渉し、伝票手続きにて材料を入手し、日曜大工で作ることとした。これも完成には3か月余を要している。

このままでは、未完成ステレオだが、その後他鉱山への長期出張調査に行った事にもよるが、3か月程手付かずの状態になった。

このころは紫雲寮入寮者もより少なくなり、全部1人部屋になったと思う。独身者では、いつしか私が年頭になっているようで、「山田さんじゃない、邪魔田さんだ」と云われるようになった。

寮の幹事達は私に3階の1部屋を与えてくれた。入寮以来私の2回目の部屋となる。この部屋は、冬季でも窓が雪に覆われる事がない、3階の東側に並ぶ3部屋の一つで、出入口の正面が階段の降り口になっているが、以前の廊下より、人通りが少なく遙かに静かである。

この時点で、後にこの階段で起きる出来事に遭遇することを、私が知る由もない。

未完成ステレオのまま、この部屋で昭和36年の新年を迎え、今春中に完成させる事を心に誓っていた。春が過ぎればキャンピング調査が多くなる。その前に完成させなきや。

正月気分が解けて、部屋の3分の1に新聞紙を敷き詰め、残るもう1台のラジオ部品を新聞紙上に広げた。小山田君は疾うに転出、頼るのは己のみ、寸暇を惜しんで組み立てる。僅かずつだが進んでいるのが見えて来る。

時の進みは速く、今日は春分の祭日、窓の外は晴天で良い日和、常なら中の沢のスキー場へ行くところ、今日は早朝から新聞紙に“あぐら”をかき、時を忘れて夢中で銅線を切っては、部品とハンダ接続を進めていた。

その時ドアのノックがあり、寮母さんがドアを開け「山田さん何をしているの、10時を過ぎているのに、朝食を取っていないじゃないの」、「もう10時か、まあ一寸入ってこれを見て御覧」、寮母さんは「大分出来上がっているね」「お茶が無いので、軽くお湯割り焼酎を飲みましょう」と誘い、数分で造り、二つの湯飲みを出し、先に寮母さんが一口飲んで首をかしげ、「この焼酎少しおかしいね、頭が痛くなる、これ飲まずに帰る、早く食べに来なさいよ」と言って帰った。

私は焼酎を2・3口のみ、トイレを済ませて食事に行こうと思い、“ちり紙”を数枚鷲づかみにして、ドアを開けて出て、後手でドアを閉めた瞬間、私の意識喪失が起こり、廊下の板に崩れ落ちた。落ちてすぐ意識が回復し、無様な己の姿に慌てて這いながら“ちり紙”を集め、他人に見られぬようすぐ階段の降り口に立った。その瞬間またも意識喪失、十数段の階段を無意識で踊り場まで転げ落ちた。又すぐ意識回復する。己の姿も行為も先程と同じ行動して、踊り場から2階への降り口に立つと、またまた3度目の意識喪失となって2階の床板に転げ落ちた。

さすがに今度は立つ力はあっても、立つ気にはならなかった。15秒程そのままでいると、近くの部屋から3人出てきて「山田さんどうした?」と声を掛けて来た。私を抱え起こし、“ちり紙”も集めてくれた。「僅か焼酎を飲んだんだ」、「焼酎に腰を取られたな」、まさかと思っていた。3人で40m程の廊下をトイレまで、私を連れて行き「大丈夫か」と云いながら、トイレのドアを開けて中へ入れてくれた。とても有り難く思った。

私はトイレの中で考えた。焼酎に腰を取られることは考えられない。どうも寮母さんの頭痛と、私の意識喪失に関係があるように思われる。とは、“炭火による一酸化炭素か?”、瞬間に、私の背筋に冷水をかけられたような思いだった。もし寮母さんが訪ねてくれなかったら?

私は部屋の前に戻り、着ているジャンパーを脱ぎ、ドアを勢いよく開け、ジャンパーを振り回しながら、部屋を通り窓を開けたまま、食事を取りに行った。

朝食はお彼岸の牡丹餅だった。ステレオは4月末に完成しました。