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上北鉱山小学校校歌 その作詞者について

小竹美惠子

わたくしは、昭和294月~323月までの3年間、両親の任地上北鉱山(小学校)で過ごし、30年春に小学校に入学しました。

12年は3組で、半田あさ先生のクラス、1年生の時は体育館内につくられた仮教室、2年生時は定時制として使われていた下の学校で過ごしました。

そんな環境だったので、同学年の他のクラスの方とはあまり交流がなく、3年生になるとクラス替えがあることを楽しみにしていたのに、転勤となり悲しい思いをしたことを覚えています。

このたび文集「上北鉱山の想い出」を読み、私たちの時には当初からあった校歌がその数年前までなかったこと、校歌がどんなに待ち焦がれて出来たかを知り、あらためて校歌を歌ってみると、その歌詞、曲の素晴らしさを再認識してしまうのです。

作詞をされた小野正文先生(1913~2007)は、太宰治研究の第一人者。

上北鉱山小学校の校歌を作詞したのは戦後三十代の時です。米田勇四郎校長先生はどのようなご縁で小野先生にお願いしたのでしょうか。小野先生は私たちの校歌をはじめ、その後なんと100以上もの校歌を作っています。

青森中学、旧制弘高、帝国大(東大)と太宰と同じ道を歩み、太宰が亡くなるまで親交があり、大学卒業後は師範学校や青森高等女子高などで教えています。

戦後は教育庁勤務、上北鉱山小の校歌はこのころの作品です。県立図書館長、初代弘前南高校校長、青森中央短期大学学長、弘大教授他を歴任され、青森県の文学界にも大きく貢献されたことから、1998年には東奥日報社から東奥賞を受賞なさっています(叙勲なども)。

唐突ですが、わたくしの義父は札幌の人間で、旧制弘高から東北大に進みましたが、弘高での青春時代が強烈で、同窓会には96歳まで出席していました。小野先生の5年先輩にあたり、小野先生は幹事、父は最高齢出席者という縁でわたくしも先生と親しくなっていました。

あるとき、三沢の実家の父が上北鉱山小学校校歌の歌詞の印刷物を見つけ、送ってくれたのを見てびっくり。作詞者が小野正文となっていたからです。

それまで、校歌の作曲者はもちろん、作詞者もまったくわからなかった(というより、関心がなかった…)ものの、とにかく校歌の歌詞は、なんて上北鉱山の風景が浮かぶすばらしい歌詞なのか、と感嘆してたので、作詞者が小野先生と分かった以上、どうしても作詞をなさった当時のことを知りたくなり、小野先生にお聞きしたくなりました。

わたくしの入学したのが上北鉱山小学校だということ、朝霧はるるから始まる歌詞のすばらしさ、それが小野先生の作品だったということが分かった驚きと喜び、などをお伝えし、お返事をいただいているのですが、20年ぐらいも前になるので、今回探したのですが見つけることができませんでした。

記憶をたどると、先生の初期のころの作品ではあるが、昭和20年代は多くの学校の校歌を依頼されて作っていたので、上北鉱山小学校のことは、わたくしに言われるまで忘れていた(?)とおっしゃる。でも上北鉱山の光景は覚えているという内容だったように思います。

OL時代、先生にお目にかかってはいるものの(会社の番組審議委員長をなさっており、定期的に来社)ごあいさつ程度だったのが義父とのつながり、そしてこの校歌のつながりで一気に親しくなったのは、不思議な出来事に思います。そして、のちに小野先生の校歌集作成に上北鉱山小学校が大きなかかわりを持つとは、その時にはうかがい知ることはできませんでした。(楽譜がないので採譜したほしいとの依頼があったのです。)

長々と書いてしまいましたが、文集の「校歌と校章 急がれた校歌制定」を読み、ささやかなエピソードをお伝えしました。(文中一部省略)

 

「小野正文作詞校歌集」―小野先生のあとがきから抜粋

戦後、県内の小中学校から校歌作詞の依頼を受け、その数は百に近いかもしれないと思ったが、百二十くらいあるというので驚いた。奈良岡氏の奔走の結果の校歌の作詞、作曲が北野の街社に殆ど届いていると言っていい。

この校歌集成立までのエピソードとして特筆しなければならないことがいくつかある。そのひとつは、上北鉱山小学校の場合である。

少年時代から見なれている野内駅の構内へケーブルで運ばれてくる鉱石は、遠い国からの便りでも見るような不思議な気持であった。時には、生活物資が運ばれてくることもあった。戦後、校歌の作詞を頼まれて天間林村から林間鉄道で登ったが、行き先は上北鉱山中学校だったが随分昔のことのような気がする。上北鉱山小学校と同居だったかもしれない。

奈良岡氏は、もう、校舎もなくなった現在地まで車を運ばれたようである。校歌の歌詞は見つかったが、作曲の方は楽譜が見当たらなかった。地教委に頼んで南啓善という作曲者名は判ったが、すでに故人となられていた。

そこで小竹美恵子さんが登場する。というのは御父上が上北鉱山小の先生をしておられ、今も三沢市でご健在だった。小竹さんは藤沢市に居られ、電話で御父上と校歌を唄い合わせて、苦心のテープ録音をして下さった。微笑ましい風景というよりも涙ぐましい情景というにふさわしい。胸に迫るエピソードである。

その小竹さんはかつて青森テレビに勤務して居られ、私が何度もお会いしているという。お便りもいただき、ご主人は札幌在住の旧制高校先輩の小竹氏のご子息で会ったのも奇縁であった。

平成981

小野正文識

(小野正文作詞校歌集。平成91031日発行。

著者小野正文。編集者奈良岡治発行所北の街社(青森市本町))