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樋川裕子様からの手紙(一部省略)

先日は「上北鉱山の想い出」を2冊も送っていただき有難うございました。1冊は現在も親しくしていただいています同時期共に鉱山小に勤務していらっしゃいました田中信吉先生ご夫妻に差し上げ、喜ばれました。

早速隅から隅までじっくり読ませていただきました。あまり多くを語らなかった主人が、折に触れ懐かし気に話していました鉱山の様子がよく分かり、とても感動いたしました。こういうところで昭和35年から新任教師時代を過ごしていたのですね。

二度ほどドライブがてら訪れましたが、ほとんど緑に覆われていましたので今一想像がつきかねておりましたが、この文集でおおよそのこと分かりました。主人は2年前に他界しておりましたので、仏前にこの文集を供えました。

学校関係でも集いが行われており、その案内などもいただいておりましたので、その情報も何かのお役に立てるかも…と、お節介のようにも思いましたが同封いたしました。あちらこちらからいろいろと届いていることと思いますが…。やはり何かしら集いたくなる雰囲気のある場所だったのでしょうね鉱山は。同封の資料のほかに私が在学しました野辺地高校には、今洋子さんやら伝住文世さん,佐藤敏子さん達が同期にいらしたように思います。(注・同封の資料は「山の音会」。在籍会員74人、恩師11人。平成25年にも開催)

同封の冊子驚かれたことと思いますが、有田哲也様の手記の中に雪中行軍云々…と出ていましたので、その行軍を案内した人たちの住んでいました地区に赴任し、その偉業を子供達にも知ってもらいたくてこのような小冊子を作成しました。そして昨年度は展示会も開催し、たくさんの方達においで頂き知ってもらうことが出来ました。つたないものですが目を通してくだされば幸いに存じます。

この冊子ができるまで沢山学びましたが、特に風雪の厳しさに耐えながらの行進はいかばかりだっただろう…との思いを強くしておりましたので…。

なお、題字は主人に書いてもらいました。良い記念になりました。

 

小冊子「二十九年目の証言―雪中行軍案内人ものがたり」(説明-佐藤)

明治35年、満州におけるロシアとの会戦を想定して、青森の第5連隊と弘前の第31連隊が、それぞれ八甲田山に向け雪中訓練を行った。青森隊は210人のうち199人が遭難死、弘前隊は43人全員が八甲田山の田代平を経て青森まで踏破した。

弘前隊の案内人7人は、樋川裕子様が校長を務めた十和田市立柏小学校のある柏地区の人達だった。案内人達は口止めされていたが、29年後にその一人がやっと口を開いた。その記録を、樋川校長は生徒や地区の人達に偉業を再認識してもらおうと作家川口泰英氏の多大な協力を戴いて、読みやすく書き直したのがこの冊子である。

樋川様からは、その後次の新聞・雑誌等のコピーが寄せられた。

 ・映画「八甲田山」の原作者新田次郎「八甲田死の彷徨」≪私の取材ノート≫

・制作者・脚本家橋本忍氏に聞く≪フィルムには空気が写る八甲田で撮るしかない≫

・寄稿・八甲田山から20年≪高倉健≫・≪北大路欣也≫

・映画「八甲田山」写真展≪十和田郷土館企画展≫

・雪中行軍案内人の顕彰碑を十和田市が補修

・健さんが愛したコーヒー「八甲田の残雪」≪思い出とともに後世に≫

(ロケで滞在していた高倉さんの好みに合わせてブレンドした十和田の販売店製。

樋川様からご恵送いただき賞味しました。苦みの強い(苦み走った健さん?)と想像していましたが、ブルーマウンテンのように程良いバランスのとれた風味でした。佐藤)