上北鉱山の想い出 |
|
投稿者:長 谷 川 勉 (仙台在住 67歳) |
|
《プロフィル》 |
私の父長谷川勝は、新潟県東蒲原郡上川村の出身で7人兄弟の2番目あった為、家に |
と留まることが出来なかったので戦前に高森鉱山に入社し、会社の上司の紹介で当時 |
青森県上北町に居た母親(ソノ)と見合い結婚をして終戦後に日本鉱業に移りました |
私の兄妹は姉2人(長女は麻疹の為6才で他界)と妹が1人の4人兄弟で二人の姉は |
高森鉱山の時代に大坪台で生れ、私はベビーブームが始まった翌年の昭和23年に高 |
森部落で生まれました。 |
|
父親は昭和42年に定年退職となり、その年に鉱山から青森市鴨泊(現在は小柳) |
に転居し、珪肺が主たる原因で昭和57年に70才で逝去しました。 |
当時の珪肺患者としては、長生きをした方だと思います。 |
母親(ソノ)は平成22年に仙台で他界しました。(89歳) |
|
《薪の配給・薪切・薪割り》 |
鉱山では、会社施設及び中学校(石炭)以外は、薪ストーブを使用していた為、 |
秋になると男手が居ない家庭以外の殆どの家では、配給になった木を手鋸で切断し、 |
斧で薪割りをしてから、家族総出で物置に収納するのが恒例の風景でした。 |
名前は忘れましたが、薪の切断を依頼されて商売にしていた髭の親父さんが、 |
頭にタオルを巻いて汗を掻き油の臭いが漂うエンジンを動かしていたのが、子供心に |
カッコいいと思ったものです。 |
物置に積んだ薪の間には、ネズミが切り取った新聞紙などで巣を作り、子育てをし、 |
天井裏を駆けずり廻る音を聞きながら、一冬を過ごすのが鉱山の一般的な過ごし方で |
あったとように思います。 |
|
《夜11時になるとカンテラを点火》 |
5軒長屋に住んでいた当時(昭和32年ころ)は、夜11時になると照明が半分に |
なるので、宴会をしている時は、11時を過ぎるとカンテラを2個程吊り下げ火を |
点灯し、皆さんがカーバイトの匂いを嗅ぎながら宴会を続けていました。 |
長屋は二間しかないので宴当然会の最中は、うるさくて眠れなかったので子供達も |
眠い眼を擦りながら大人と一緒になって、宴会に混ざり遅くまで一緒になって |
三波春夫の「ちゃんちきおけさ」の唄に合わせて小皿を叩いていました。 |
当時、親父が酔っぱらって決まって唄う歌は「愛ちゃんは太郎の嫁になる」でした |
|
《岩魚釣り》 |
大坪川は鉱毒の影響で魚は生息してはいませんでしたが、幾つもの支流が注いでおり、天然の岩魚が生存していて、鉱山では竿を挿す人は沢山いた様です。 |
私の親父もそのうちの一人で、朝暗いうちから出掛け昼過ぎには戻って来ましたが |
多いときには100匹余りもの岩魚を釣って来ることもありました。 |
釣って来たその日は決まって夕方から近所の方を誘っての宴会が始まるのが恒例でした。 |
岩魚の塩焼き、ヌタ、岩魚を一度焼いてから甘辛く味噌煮にした岩魚料理などを肴にして、焼酎や合成酒を酌み交わしながら、皿を叩くなど、手拍子をして歌謡曲や民謡などを |
歌って夜遅くまで宴会が繰り広げられました。 |
私も小学低学年のころから親父に連れられて、ガソリンカーの線路を歩きながら、 |
餌となるバッタを取りながら二俣の沢、タダラの沢、避難所の沢などに行き、 |
釣りのテクニックを教わりました。 |
今でも渓流釣りが趣味で、年に2~3回は、岩手県や秋田県まで足を延ばしています |
|
《タンパン川(鉱毒)で泳ぎを覚えた》 |
今の時代では到底考えられない事ですが、私が泳ぎを覚えたのは高森部落を流れていた |
川です。当時の川は、水は透き通っていましたが、高森鉱山の廃坑から流れ出る鉱毒の |
関係で石がオレンジ色をしており、触ると水の中で舞い上がり、腰バンドに手拭を付けた |
褌は直ぐにオレンジ色に変色していました。 |
当然泳いでいる最中、誤って水を飲んだりすることも多々ありましたが、誰も泳ぐのを |
咎めたりはしなかったですね。 |
今の時代でしたら大騒ぎになると思いますが、あれから60年ちかく経ちますが、特にそ |
れが原因で病気になったりはしていませんが? |
|
《雪の要塞づくりを中学生から小学生までが一緒に》 |
私が小学5年生当時に高森部落の中学3年の折戸谷登さんがリーダーとなって、下は小 |
学1年生まで、部落の約20名程の子供たちが、道路(雪を踏み固めた程度)の脇にある |
畑で約3~4m積もった雪の下に、大がかりな要塞を上部入口から下に掘り下げ、そこか |
ら横に10m以上の這って歩く通路を作り、最後に約4畳半程度立って歩ける部屋を設け、蝋燭を点けて皆で餅やみかん等を持ち寄ってトランプなどをしたことがありました。 |
雪を搬出するのにリーダーの指示のもと子供たち皆んなでバケツリレーを行い、一週間 |
程かけて完成したと思います。 |
今の時代とは違い親分子分のような縦社会の遊びを通じたルールを教えて貰いながら、 |
順次下の子供に伝えられて虐めなどが発生しないとても良い状況だったように思います |
|
《田中信吉先生とそろばん》 |
小学5年生の時、担任が田中信吉先生になりました。 |
放課後に殆ど毎日そろばんの実習をして頂きました。先生には講習料は確か無報酬だった |
と思います。お蔭でクラスの生徒全員が珠算検定を受けて級を取得していて当時、学年は |
3クラスありましたが算数の成績は一番良かったと思います。 |
6年生の時には2級~3級取得の5人が選抜されて、青森商業高校で行われた『珠算大 |
会』に出場して来ました。残念ながら成績は良くありませんでしたが、とても良い思い出 |
の1ページとなっています |
先生は結婚して間もなかったと思いますが、休みの日には朝から大勢で中ノ沢にある先 |
生の自宅(社宅)まで訪問し、神経衰弱やダウトなどのトランプゲームをして、お昼には |
味噌おにぎりをご馳走になって夕方まで居座っていました。 |
今思えば、いつも多数の生徒が押し掛けて奥さんは、忙しいのは勿論経済的にも |
大変だったでしょうね! |
先生、本当に有難うございました! |
|
|
6年2組卒業時 田中先生(左端)と生徒(一部) |
|
《たけのこ・キノコ採り》 |
中学生の頃は、春は高森の水飲み場の上や、中学校のスキーゲレンデが、私の姫竹の採 |
取場で、秋になると高森の自宅のすぐ上の斜面に、ボリボリ、かのか、ムキ茸、なめこ、 |
シシ茸(香茸)等を採りに行きました。 |
父親は舞茸採りの名人?で、夕方早番から帰って来てから山に入り、暗くなるまで背負 |
い籠一杯の舞茸を3回ほど往復して採って来たこともありました。 |
親父の話では、舞茸は誰かに先に採られないように葉っぱで隠したりして、成長のタイ |
ミングを測ることが重要だと聞かされておりましたが、私を一度も渡しを舞茸採りに連れ |
て行って貰った事はありませんでした。 |
|
《屋根の雪上げ》 |
鉱山の2階建社宅や坪川に出来た4階建アパート以外の平屋の社宅では、屋根の雪 |
下ろしではなく、雪投げが殆どであったと思います。我が家では明かり採りの為、父親と |
二人がかりで窓の前を2段にして掘り上げていました。 |
勿論玄関は当然雪で埋まってしまうので、地上に出る為には雪のトンネルを作り、20~ |
30段の階段にして出入りをしていました。 |
特に昭和38年のサンパチ豪雪の時は電線(通常地面から下の電線までは12m位)に |
近くなった為、学校から関電に注意をする様、伝達が出された程でした。(写真左の穴は、玄関に降りる雪のトンネルです。 |
|
|
左から母親(ソノ)、妹(律子)、親父、私(中学3年)、 |
《中学は入学式も卒業式も廊下だった!》 |
昭和23年生まれはベビーブームの2年目で、ご多聞のもれず鉱山でも我々が小学校に入学した年から3学級に増えました。中学校に入学した時は教室が不足し、木造の体育館 |
を教室にした為、体育何での入学式は出来なくて廊下での入学式でした。 |
(中学1年生の夏ごろから会社が不景気となり、秋田県の釈迦内鉱山や札幌の豊羽鉱山な |
どへの転勤者が相次ぎ、合わせて生徒も減少したことから、3年生の時は2クラスでした。) |
|
|
小学校6年生(昭和36年3月)の卒業写真 |
体育館が使用出来ないまま、中学校3年生になった春にようやく体育館の建設工事が |
始まり秋になって完成し、体育の授業も出来るようになりました。しかし、卒業式前の |
2月に大雪となり、屋根の上に積もった雪が3m程となっていた朝の授業前に男子生徒 |
10人ほどで卓球をしていたところ、私が異音と床に鉄骨用のボルトが2~3本落ちていた |
のを発見し、職員室に届け直ぐに体育館の立ち入り禁止措置が取られました。 |
確か2時間目の授業の最中だったと思いますが、雪の重みで突然大きな音と共に屋根が |
潰れて体育館が圧縮され、その風圧で入口の鉄製扉が開いたところから、尚一層圧縮された空気が、渡り廊下を通って一気に体育館下の私のクラスの廊下側の窓硝子が、 |
激しく揺さぶられ、丁度窓側に座っていた佐々木幸子さん(後に私の妻)が驚いて椅子か |
ら飛び跳ねた光景を目の当たりにしました。(今でもその時の様子を思い出します。) |
後で聞いたところ管理人をしていた高田さんが、雪下ろしをする為梯子をかけて屋根の |
雪の上に足を降ろそうとした次の瞬間に、ものすごい勢いで屋根の雪が落ちて行ったそう |
です。 |
その日の事象は危機一髪の状況だったと本人から伺いました。 |
その様な訳で体育館が使えなくなったことにより、私たちの卒業式は入学式と同様に |
廊下で執り行われました。 |