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上北鉱山の沿革

佐藤 宏司

上北鉱山は、青森県上北郡天間林村天間舘(現・上北郡七戸町南天間館1)に所在し、昭和111028日に、「日本鉱業上北鉱山事務所(のちに上北鉱業所)」になった

同鉱山は、大正の初年二,三の業者により探鉱が行われたが、本格的な開発は昭和10年三井栄一氏の所有になり、本坑硫化鉱床を発見したことに始まる。昭和1110月、三井氏の委任により日本鉱業が経営に当たることになった。

その後、本坑に続いて立石、上の沢、奥の沢等で硫化鉱床を発見、本格操業に入った

昭和16年、奥の沢硫化鉱床に接して高品位銅鉱床を発見し、199月には月産銅量1,400トンを超え、当時本邦最大の銅山になり、「神風銅山」として全国に名を馳せた

終戦後は、硫化鉄鉱の採掘を再開、23年上の沢に、25年立石にそれぞれ含銅硫化鉱床を発見して操業を継続、さらに、30年代初めには奥の沢で露天掘りによるかっ鉄鉱を採掘し、青森へトラックで搬出した。

 選鉱場で処理した精鉱は、鉄索で東北本線の野内貯鉱舎まで約21キロメートル搬送し、同所から貨車および貨物船で出荷していた。人員、重量諸物資は、東北本線乙供駅から約28キロメートルの軌道を、ガソリンカーで運搬していた。

昭和30年代初めには元山―青森間の道路が開通し、3310月路線バスが田代隧道口~青森駅間12往復で仮運行開始、347月元山~田代~筒井~青森駅間30キロメートル2時間、13便の運航が開始された。冬季には鉱山所有の雪上車も運行するようになった。

 従業員数は、操業開始時はわずか50人だったが、昭和20年には1,485人、32年約1,000人(同年の鉱山人口約3,500人)を数えた。その後は探鉱に努めたが新鉱床発見に至らず、469月に坑内採掘を休止、485月奥の沢の露天掘りも休止した。

操業開始から閉山までの粗鉱総生産量は約506万トン、精鉱中の銅量約43,000トン、亜鉛量約23,000トンであった。

主に日本工業50年史・80年史から