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探査の変遷~5つの変換点
阿部 喜治

上北鉱山は大正年間には鉱徴が発見されていたが、昭和10年に個人山師の三井栄一氏が探鉱に着手し、昭和11年に同氏から日本鉱業が鉱業権を取得して以来、巻初の「上北鉱山の沿革」の項に記されてあるような経過を経た後に、鉱山の宿命である鉱量の枯渇等の要因から昭和46年に坑内生産を、48年には全ての生産を停止した。

この一連の経緯の中で、多くの鉱床や鉱体の探鉱と発見に関わる逸話を含めて、古い資料を網羅整理して本稿を纏めた。

何分にも黴の生えた古文書然の資料に基づき推定の部分も多いが、ご判読願うと共に、上北鉱山は日本鉱業の社是であった「鉱利を全うし遺利を無からしむ」を実践した鉱山と考えている。

本稿の纏めに際しては、山田幸男氏から旧資料の提供等の多大な協力を受けた事に謝意を表する。

 

1.鉱石の尻尾に触った天間林の人達

東北本線で青森県に入ると、間もなく乙供と言う駅に着く。駅前に貯木場があり、営林署のガソリン車で木材を運んで来るのである。乙供はその起点の駅で、軌道は当初集落のある平坦部を10km、次いで人家の全くない大坪川渓谷を西に遡って18km、分岐点坪川(標高300m)に着く。

ここから分岐する立石沢を南に遡り、立石,下之沢,中之沢,上之沢を経て標高700mの奥之沢に至る。この間は落葉広葉樹の橅(ブナ)の原生林で盛夏には緑葉が全面を埋め尽すが、その中に草木の全く育たない不毛の所がある。砂や細かい岩片が地表を覆い、「ガレ」や「ヤケ」と呼ばれている。

中之沢の「ヤケ」は沢の中程80mの高さにあった傾斜のついた窪地で、淡茶色の砂で覆われていた。天間林村の若者達が露営の支度をし、鶴嘴(つるはし)や鍬(くわ)やスコップを持って乗り込んだ。鶴嘴で孔を掘りスコップで撥ね上るのだが、漏斗状に掘り進むと蟻地獄のように崩れ落ちる。それでも下に行くにつれ暗褐色の褐鉄鉱が多くなる。中央の孔が掘れなくなると打ち留めにして、東西南北にそれぞれ10m離れて4本掘った。皆同じような結果だったが、山側に掘った孔の底にきらきらと光る物が見えた。改めて他の孔も掘り直してみると同様であった。冬も近かったので、それらを叺(かます)に入れて引き揚げた。

 

2.救いの神と協同で本坑鉱体を把握

鉱山通でもある三井氏は、それが黄鉄鉱であり、露頭を掴んだことを称賛しつつも、これを本格的に探鉱するには資金と技術を要することを悟り鉱業権を設定した。

昭和10年 掘削設備を整え、露頭の下部70mに本坑0m立入坑を開坑した。堅硬な流紋岩を突き抜けると急に軟い硫化鉄の鉱体に突入した。更に進むには崩落の恐れがあり、支柱が必要であったが掘進は容易であった。鉱体の中を掘り進むこと40m程で再び流紋岩に突き当たった。この間 期待した銅鉱物は発見できず、昭和1110月 日本鉱業に経営を委ねることとなった。

 

3.日本鉱業 各所で硫化鉱体を発見

(ア) 本坑鉱体では中心部から立入坑に直角に坑道を展開し、左右とも20mで鉱体を抜け流紋岩に入った。その後も0m地並での探鉱を進めた結果、鉱体は流紋岩体中直径40mの円形をなすことが分かった。上方へは70m、下部へは推定で100mとしても巨大な円筒状の鉱体の存在は奇異の感さえある。

(イ) 立石坑口の急な山腹は大小の岩塊が混ずる「ガレ」である。そこには淡黄色の浸出が見られ地中に硫化鉱の存在が予知された。坑口から100mで硫化鉱体に着鉱、40mで鉱体を抜け流紋岩となり立入を一時中断した。

(ウ) 上之沢の地表には数カ所に「ヤケ」が見られた。その中には淡黄色の硫黄分の浸み出しを匂わせる部分もあり、地表からの試錐で数カ所の鉱徴を捉えていた。これらに対して20m,40m,60m,85mの各地並で4つの立入り坑を掘ってそれらを確かめた結果、流紋岩体を下盤とし、その上部の凝灰岩に亘って銅・鉛・亜鉛を含む黒鉱質鉱物の鉱染帯があり、処々に富鉱部をなしていることが分かったが。これらを上之沢第一鉱床と総称している。

(エ)奥之沢では、地表下浅い所に凝灰岩、その下には流紋岩があり、ともに強い粘土化作用を受けている。その中に3鉱体以上の硫化鉄鉱体を発見している。 粘土化作用は鉱化作用とも関係が深いとも言われ、より多くの鉱体の潜在が期待されると同時に、坑内水に胆礬(たんばん)が含まれていることは銅鉱の潜在をも期待させるものであった。

  

4.洞察力と実行力で遂に高品位銅鉱を発見

次の模式は硫化銅鉱が銅の2次富化作用により高品位化する過程を示すものである。

CuFe2S  + O2

含銅硫化鉄鉱 酸素 

  Fe2O3 +CuxS +CuxSO4  +CuxCO3  +CuxO2

  褐鉄鉱 硫化銅鉱 硫酸銅鉱 炭酸銅鉱 酸化銅鉱

     (輝銅鉱) (胆礬) (孔雀石)(赤銅鉱)

     (藍銅鉱)          (黒銅鉱)

            2次冨化銅鉱(高品位銅鉱)

*ⅹ2以上の数

奥之沢鉱床の東北方50mで現地形の 緩斜面上に褐鉄鉱の餅板状鉱層が堆積している。その量20tonで、Fe56%, Cu0.09%, S0.56%CuSの含有量が気になる。上述の模式のFe2O3 (褐鉄鉱)に対応すると考えられる。同様に坑道に浸み出ている青色の坑内水はCuxSO4(胆礬)に違いない…との確信のもと、困難な粘土帯の掘進に挑み、高品位の銅鉱に到達したのは昭和16年のことであった。

銅本鉱体(皿状)に始まり、南鉱体(塊状)、東鉱体(漏斗状)、第二東鉱体(皿状)を次々に発見、戦時中の貴重な資源として宝物のように鉱石を叺詰めにしては、製錬所に大量に直送したのが「神風鉱山」の名の元である。

 

5.再出発、選鉱の原鉱を求めて懸命の探鉱

終戦そして将来を見据えて、昭和28年開業の浮遊選鉱場の原料確保が命題となった。

(ア)立石坑では0m立入坑を更に掘り進めた処、板状に直立する含銅硫化鉄鉱体を発見した。この下部が緩傾斜で肥大するのを試錐で捉え下部への堅坑開削へと繋がった。

(イ)上之沢第一鉱床には、流紋岩と凝灰岩の間に銅--亜鉛を含む鉱物の鉱染帯がみられ、北部~南部にかけて3カ所に富鉱部を作っている。

(ウ) 上之沢第二鉱床は地表からの試錐により発見されたもので、東に緩く傾く流紋岩の上の浅海性堆積岩を母岩とするもので、黄鉄鉱-黄銅鉱-閃亜鉛鉱等が角礫質の礫や砂状で含まれる。南北の走向方向200m、東西の傾斜方向400mの中に本𨯁-上盤𨫤等の5層の鉱体があり、本坑0m坑口から800mの坑道を掘削して開発された。

(エ)上之沢新鉱体は上之沢第二鉱床の北西部の流紋岩の接触部に発達する鉱体で、上部は脈状、中部は塊状、下部は鉱染状である。高品位部には黝銅鉱-閃亜鉛鉱-方鉛鉱が含まれる。

(オ)上之沢第四鉱体は試錐により着鉱したものだが、上之沢第二鉱床下盤の流紋岩体の凹部に出来た割れ目に沿って鉱液が上昇して出来たもので、上部が銅--亜鉛に富む富鉱帯になっている。

(カ)上記の諸鉱床-鉱体は浮遊選鉱原鉱として稼採対象となったが、鉱山終末期には、七十森山と石倉の両地区に集中的な試錐探鉱を実施した結果、成果を得られず探鉱作業を終了した。