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採鉱の変遷

小笠原

・採 鉱

戦時中 神風鉱山と言われ月産銅量で本邦最大の銅山であった上北鉱山も、戦時中の乱掘や施設の荒廃に加え、労働力、資器材の不足等で戦後生産を回復するのは大変であったが、昭和215月には労働組合が結成され、鉱山の操業の基本となる鉱山保安法、金属鉱山等保安規則が248月、2511月には火薬類取締法が施行されて近代の鉱山の操業に移行していった。

採掘の対象となる鉱床は、立石、本坑、奥の沢にあって夫々の採掘を担当する3係と新しい技術の現場試験を担当する技術係の4係があった。


 係名  鉱床 採掘法 
立石  塊状硫化鉱  ルーム&ピラー 
  脈状銅鉱  シュリンケイジ 
 本坑 塊状硫化鉱  ブロックケービング 
  層状含銅硫化鉱  ルーム&ピラー 
奥の沢  高品位銅鉱  トップスライシング 
  塊状硫化鉱  ルーム&ピラー 
 技術  新しい技術の開発 導入 

 

各係の鉱床別の採掘法は、上記の通りであったが、採掘法の説明はさておき、坑内作業の基本は、削岩、発破、積み込み、運搬、支保、レール、パイプの敷設、排水等である。

生産は前記各法令に基づき鉱山の安全、労働環境の改善等を基本に進められて行った。とくに 削岩、積み込み、支柱の作業は、肉体的な負荷がとても大きく大変な労働であった。以下 各作業について如何に安全な作業環境の確立、作業能率の向上が図られていったかに就いて述べよう。

削 岩

アーム(腕)の着いたコラム(鋼柱)を立てて床と天盤の間に固定し、アームの上にスライドレールの上に乗せた削岩機で削孔する。この削岩機を固定する作業が大変で普通は二人掛りであった。その後 本体の重量を軽減して直接エヤーレッグを付けた削岩機が導入され、これが主体になった。この機械は一人で操作でき、便利であったが、長年使っていると振動障害が現れるという欠陥が有ることがわかり、究極的には、人間がハンドルを操作するだけで複数の削岩機を動かせるジャンボーに落ち着いて今日に至っている。

削岩には、鏨(たがね)とハンマーが必要で鏨は摩耗した刃先を整形、研磨しなければならず、坑外の鍛冶場でその作業が行われていた。その作業をなくしたのが超硬合金でできたロッドとデタッチャブルビット(着脱可能な刃先)で、長孔の掘削が可能になり、鏨を持って坑内と坑外を往復することもなくなった。削岩は、湿式化以前は水を使わずに濛々たる粉塵の中で行われていた。湿式化には水を切羽先端まで持っていく必要があるので、坑内に給水パイプを敷設する必要がありその費用は大変なものであったが、防塵マスクの着用と相まって珪肺(よろけ)の予防に大きな成果があった。湿式化の当初には、特に上向きの削孔の場合、岩粉が水と混ざり泥水となって作業衣を汚すので、嫌がる者もいたが、保安教育の効果で珪肺の怖さも解り湿式削岩は定着していった。

発 破

削岩機で掘削した発破孔に爆薬を装填して岩石を破砕する作業であるが、雷管に導火線を差し込んで固定し、雷管が入るように銅の棒でダイナマイトに孔をあけ、其の孔に導火線の着いた雷管を挿入する。導火線の長さによって装填された孔で破裂するまでの時間が変わり、その時間差により想定した岩石が破砕されるのである。

点火するには時間がかかり、逃げ遅れないように“ともみちび”という導火線を切ったものに火をつけ、それが燃えきったら退避すると言う安全策を取るのが一般的であったが、水が出るような湿った切羽では点火に手間取り、破砕に失敗したり、事故に繋がったりすることがあった。それで開発されたのが電気雷管であり、安全な場所に退避してから発破できるようになった。

積み込み

破砕された鉱石や岩石を鉱車に積み込む作業であるが、合砂(かっさ)と金箕(かなみ)を使って人力で行っていた。大変な重労働でこれを機械化すれば、どんなに助かるか計り知れない。そんな時、日本の機械メーカーが、圧搾空気でレールの上を移動し、積み込みができるローダーを開発し試験をすることになった。運転に習熟することで過酷な肉体労働から解放されることになったが、仕上がりに多少問題があり、下水溝や側壁(どべら)と底面(ふまえ)の角の部分に破砕物が残り、次の作業をする削岩員から人力による積み込みを懐かしむ声もあったが、積み込みに対する労働力の低減は大変なものであった。このようにローダーの採用は必然であったが、導入の費用が大きく、全切羽に行き渡るのには数年かかった。

ローダーは坑道掘進の切羽に使われたが、スクレーパーは採掘切羽での集鉱に使われた。広い採掘切羽の中で、小型の巻上機のワイヤーにスクレーパーを取り付け、運転者は安全なところにいて鉱石をかき集めるのである。鉱石は直接鉱井に投入されるのが一般的で、ルーム&ピラーの採掘切羽の安全性と生産性は大いに向上した。

運 搬

破砕された鉱石やズリは、容量約0.4立方mの木製、前開き鉱車に積まれ鉱井まで運ばれるが、木製では耐用命数が短いので、長く使えて一車当たりの容量が増える鉄製の鉱車に代わっていった。また、主要運搬坑道で列車で運ばれる鉱石は、通常使われている回転チップラ-から、列車のまま横を通っただけでガイドによって鉱車が横に傾き鉱石が鉱井に投入されるグランビーカーが使われるようになった。

レール

切羽での運搬は6kg/mのレールの上を動く鉱車が使われていたがレールの強度が弱く脱線(バッタ)が多かった。これは復旧のための労力と時間の損失が大きく、切羽での運搬には9kg/m、運搬坑道には12kg/mのレールが使われるようになり分岐線の製作やレールの敷設について国鉄のOBを招いて保線員全員に実地教育を行い成果を上げた。

支 保

軟弱な切羽、坑道には坑木と矢板による支保が行われたが、両側の脚柱の上に笠木を載せて枠が出来上がる。脚柱と笠木の接続部には切り込みを入れて両者がぴったり繋がるようにする。この作業は寸法木と言われる棒状の定規の様なものを使って行われるが、ここが支柱員の腕の見せ所で、仕上がった後を見て驚かされる。

盤圧の強いところでは数日で、末口八寸から1尺(30cm)の坑木が折れてしまう。この様な坑道の加背(高さと幅)を維持するのは大変であった。この状態の対策として採用されたのがコンクリート巻き立てであり、坑道を保守する作業を減らすのに成功した。また、其の中間の支保工として、鋼枠、鉄柱、パイプによる支保も採用された。軟弱な鉱体の採掘にはカッペ(坑道の天盤を支える金属製の梁。相互に連結でき、鉄柱と組み合わせて使用できる)の使用が試みられ成果を上げた。

排 水

昭和28年 日本鉱業の各鉱山に先駆けて、タービン.ポンプによる排水の自動運転に成功した。

照 明

坑内の照明はカンテラが主体であったが、キャップランプが使われるようになり、主要な坑道にも電灯がつくようになった。カンテラの反射鏡を磨く楽しみはなくなったが、作業環境の大いなる向上であった。

生産及び原価管理

坑内の各作業の主なものの変転について述べてきたが、原価管理は、戦後間もなくは物品管理に重点が置かれていたのが、その後はだんだんと労務費(作業能率と安全)に重点が置かれていった。即ち、時代が進むにつれて、社員の生活レベルの向上が、物価の上昇をはるかに越して、安全と作業能率の向上を図るのが当然となり、保安と作業能率の向上、肉体的負荷の低減に向かって確実に歩を進めたのである。

坑道掘進は数人がクルーで、一方で削岩、発破の二作業が行われるようになり、削孔長が長くなることで一発破の掘進長も伸びた。採掘では長孔(数メートルから十数メートル)の削孔で、広範囲の鉱石を安全なチャンバー(作業場)での削孔作業で起砕することが可能になり、安全と能率の向上に効果を上げた。

上北鉱山の戦後は昭和20年の硫化鉱の採掘から始まり、昭和33年の20,000/月をピークとし、加えて、高品位銅鉱、褐鉄鉱の露天掘りも行っていたが、採掘対象鉱量の枯渇、円高等による金属価格の低迷等により、昭和469月で坑内採掘を休止し、48年5月には露天掘りも終了し、総ての操業を終えた。

ちなみに、昭和30年前半に保有していた坑内作業用の機械類は、削岩機:120台、ローダー:5台、スクレーパー:6台であった。