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スキーの思い出

阿部 喜治

1.ノルディック28㎞走

私が上北に赴任したのは昭和28年、未だ未だ戦後の色が濃く残っている頃で、寮の食事もドンブリ一膳から解放されて、食べ放題となったことに喜んでいたものでした。

上北は本州の最北端で不便な所だと聞かされても、福島出身の私にはそれ程とは思われず、冬には7mもの雪が積り、4人乗りの馬橇が1日1往復と聞かされても、独身の私にはそれ程の事ではなく、給料の前借をしてまでも用具を購入する程スキーにのめり込んだものでした。

二冬目の1月11日、祖母の訃報が入って来ました。突然の事でしたので「お正月に逢ったばっかりだし、歳ももう八十だしなあ」とぼんやり思いを巡らしていると、課長から声が掛りました。「今夜の夜行列車に乗れ。もう便が無いのでスキーで走れ。斎藤仁君に案内させる。」と否応ない命令でした。28㎞の道程を考える暇もありませんでした。

寮に帰って礼装一式をリュックに詰め、スキーを準備していると、斎藤仁君がヘッドライト付きの充電池を持って現れ、足を痛めないように靴下の履き方などを指導してくれました。真冬の日暮れは早い。新雪の上にクッキリと残っている馬橇のシュプールの上を、左---右とスキーを滑らせストックを漕ぐ。ヘッドライトが照らす足元のみが明るく、暗闇の中に両側の山が迫った樹々の影さえ見えない静寂の中に、ストックを突く音とスキーの滑る音だけが響いて、檜木平の避難所に着く。小休止にホッと一息ついたが未だ8㎞を過ぎたばかりだと言う。

出発、微かながらに月の光もさして、谷も開けたよう。風もなく穏やかな白銀の世界に、樹々の幹だけが光って見える。そして10キロメートル、灯こそ見えないが家々の輪郭が闇の中に微かに見える。上原子の部落だ。未だ8時を過ぎたばかりなのにすっかり寝静まっているようだ。木の株に腰を下ろして小休止。

「あと10㎞」と檄が入り再出発。広々とした平らな雪の広野を「いち~にい、いち~にい」とストックを漕ぐ。煌々と電灯を点ける変電所に文明の明かりを感じつつ、乙供の駅に着いたのは10時に近かったが、夜行列車には間に合いました。

 

2.とんだ八甲田山への日帰り登頂

昭和35年4月、弟が上北にやって来ました。その3年前、大学に合格したのに宿が決まらず困って居た処、日鉱の若竹寮を紹介され学業を終えることが出来そうなのでそのお礼にと言いながら、スキーが目当てなのは見え見えであった。

総務課の事務所に顔を出し、父から預かった品を届けると、後は中之沢のゲレンデでのスキー三昧、滑っては転んではの数日を過ごしていた。この時期は雪も締まって山スキーには持って来いだ。朝の7時、雪が少し緩み出したようだ。リュックを背にスキーを肩に登る奥之沢への道も少しぬかるんで靴底が雪にめり込んでその分体力を消耗するが、堅々に凍った雪より登り易かった。

奥之沢の峠に着いて一休み、ゴム長を脱いで厚手の靴下とスキー靴に履き替えて、さあ滑降だ、と言っても此処は整備されていない山腹、回転競技さながらに樹々の間を縫う。田代の平原は広い。この4㎞の間に家が3軒見えただけ、でもスキーを滑らせては忽ち突き抜けて、いよいよ八甲田の山裾にとり掛る。今度はシールだ。これから尾根までの8㎞は登り道、アザラシの皮をスキーの底に付けて滑り止めにして登るのだ。足に錘を付けているようなもの、青空の下、積った雪は何メートルだろうか。途中、弁当を開き、終りにミカンの缶詰を開ける。供給所でも仲々手に入らない代物だ。そして登り始めて間もなく、苦しいと言って弟が胃の中のものを吐き出す。純白の雪の上を鮮やかに染めたのは先程食べたばかりのミカンであった。

疲れたのかなと思ったがゆっくり休む暇はない。ゆっくり登って平らなところに来た。もう大丈夫とシールを外し、平面滑走で付近の道標を探した。そして次の道標を見付けて近づいてハッとした。何と黒いウインドヤッケを着た人が見えるではないか。思わず「どうしたんだ?!!」と叫ぶ。「慶応のワンダーフォーゲル部の者だ。今朝酸ヶ湯を出たんだが帰れなくなったのでビバークしている」。「我々も酸ヶ湯に行くところだ。此処は何回も通った道で、着いたら話して置くよ」と言って滑り出したが次の道標が見当たらない。靄と吹雪の中を捜す一方、来た道を見失っては大変だ。一層頭の中の地図を頼りに谷を下れば酸ヶ湯に着くとは思ったが、それは余りにも無謀、前進を断念して連中のいる雪洞まで戻る。「我々は早稲田の者だ。暫し休ませてくれないか」と言っても「中に十数名が居て満員だ」と断られ、進退窮まった。そして「上北鉱山に戻り君達の事は伝える」と言って、登って来た道を帰る悔しさ。鬱憤を晴らすように8㎞の大滑降、未だ午後の3時前の空は嘘のように青かった。

田代平の滑走は目的を失った惰性で滑るようなもの、途中で日が暮れて奥之沢への登りに掛ろうとすると、ヘッドライトの群に逢う。斎藤仁隊長を先頭に雪上救護隊の面々だ。我々の無事を祝ってくれたのは良いが、これからは訓練で山に登るとばかり行って仕舞う。

後に残されて二人は重いスキーを担いでトボトボと奥之沢に登り、ゴム長に履き替えて凍った道を我が家へ辿る。

10時のニュースでは、酸ヶ湯から十数名と上北から2名の消息が分からないと報じており、慶応チームへの約束が果たせなかったことが残念であると同時に、何時までも遭難者扱いされていることが不満だった。慶応の学生達もその日の夕方には宿に帰り着き、私達も自力で帰宅したのだから・・・。

終り