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上北鉱山の想い出

有田 哲也

私は、昭和355月までの約58か月間、専ら「倉庫番」として調度課に勤務しました。「上北」は、日立での4か月間を除けば、最初の勤務地であり、その間の経験はすべてが新鮮で、いまだに当時を思い出しては感慨に耽る事も多く、「第二の故郷」のような存在です。

今年の5月、毎会欠かさず出席して来た6回目の上北鉱山の会では、参加人数が回を重ねるごとに少なくなりながらも、当時を懐かしむ多くの方々が参集される様子に接し、益々その思いを強くしています。

その際、「上北の想い出」の冊子を作成してはどうかとの提案があり、記載できるような適切な経験を持ち合せていませんうえに、赴任時から既に61年を経過し、甚だしい記憶の忘却に加え多くの錯誤があろうことを考え、躊躇しましたが、この点お許し頂けるものと勝手に解釈し、乏しい記憶を辿ることに致しました。

 

昭和298月、私は「乙供駅」のホームに立っていました。早速出先事務所を訪ね、到着の報告をすませましたところ、次の発車まで未だ時間があるので暫く休憩するよう指示され、待合室で待機しておりましたら、思いもよらず昼食のサービスを受けることになりました。

ところが、提供された「オカズ」の中に、これまで一度もお目にかかったことのない代物が添えられており、恐る恐る口にしたところ、猛烈な塩辛さのうえに、強烈な生臭さを感じたため、遂に食することなく食事を済ませました。後日解ったその「代物」は、現在では一般的な食べ物である「筋子」だったのですが、南国生まれの私にとっては、全く、不思議な「代物」でした。

事務所の係員としては、遠来の新人が到着したのを歓迎する意味で、「オモテナシ」の意向を示して下さったのかも知れないに関わらず、その意向を汲み取れない結果になったことは本当に申し訳なかったと思っています。

 

暫くして、当時入山のための唯一の手段であった「トロッコ列車」に乗り、どのくらいの距離・時間を要したか全く覚えておりませんが、谷間に施設された軌道上を予定どおり運行し「坪川駅」に到着しました。早速、総合事務所に出向き到着挨拶の後、「清交寮」への入室が決定し、晴れて上北郡天間林村の村員となりました。

配属された調度課の事務所は、「本坑」の採鉱課事務所や施設課の近くにあり、「資材の購入・倉庫班」と「林業班」が勤務していましたが、生活用品を調達する「供給班」の勤務は、中の沢にある「供給所」でした。

 

「購入・倉庫班」の主たる役割は、鉱山で必要とする多くの資材を、必要とする時に供給することにありますが、中でも代表的な物として「削岩機」、「爆薬」、「ザンセ―ト等の各種選鉱剤」がありました。「ダイナマイト」は、野内から「索道」で運搬されたものを受け取り、「立石坑」に通じる道路の斜面に作られていた「火薬庫」に搬入して、採鉱課の係員に引き渡す作業も重要な仕事でした。木箱はかなりの重量があり、運搬は重労働でしたが、檜材で作られた丈夫なものだったので、空き箱を譲り受け本棚として活用させてもらいました。

鉱山としての最終製品である「精鉱」を作るために必要とする「選鉱剤」も、絶対に欠かせない最重要資材でしたが、その残高と使用実績を把握するため、「索道」の発着点である運輸課の事務所に接続した斜面に作られていた「選鉱場」の場内をよく上下したものです。

調度課事務所の建物は、事務室と倉庫が一体となっており、多くの削岩機部品のほか、各種の資材を保管しており、「払出伝票による出庫」に備えていました。物品の補充は、青森で調達できるもの以外は全て資材部を通じての「本社購買」に依っていました。通常は「購入依頼書」を郵送しますが、緊急の場合など重要な用件がある場合には、「電話交換室」に接続を依頼し、繋がり次第初めて通話が出来る時代でした。

上北勤務の最初の2年弱は、「専門実習」の期間でもありましたが、その終了時に「実習レポート」を提出する必要があり、「WP」や「PC」など無い時代、なんとか完成した原稿を冊子に纏めるのが一苦労でしたが、「ガリ判刷り」が得意な方が引き受けて下さり、大変助かった記憶があり感謝しています。

「林業班」の主たる役割は、寒い冬を乗り切るために欠かせない暖房用の燃料を確保することでした。営林署から伐採の許可を得て、「ブナ林」から切り出した木材を、使い易い大きさに切り揃えて所定の数量に纏めた一山を「一棚」と呼び、何棚かを各家庭に配給する大変苦労な作業を受け持っておられました。寒い冬にはこれらの方々とその薪を燃やす「ダルマストーブ」を囲み、アルマイト製の弁当箱で温めた昼食を食べるのが楽しみだったのを懐かしく思い出します。

格別の娯楽機関など無かったヤマでの楽しみの一つに「会館」で時々上映される映画や演劇があり、都度出掛けていましたが、鋸で音楽を奏でる一行や、後日売り出した若手の俳優が來館したことがあったような気がします。

 

清交寮では、時々「飲み会」を開く機会がありましたが、「ヤカン」で沸かした日本酒を、「オチョコ」ではなく、蛇の目マークの入った「湯のみ茶碗」で酌み交わす豪快な宴会となることが常で、かなり鍛えられたものです。

また、当時総務課の係長だった竹本さんの指導で寮生数人と共に練習する尺八の会がありました。千葉さんなどは練習熱心で優秀な生徒でしたが、私はなかなか音が出せず、楽しみよりも苦しみの方が上回る状態の劣等生でした。それでも本社転勤時、連絡を受けて待ち構えていた同好会の方に押し切られたかたちで「羽織ハカマ」を着せられ、東京駅近くでの発表会で一員として参加させられる羽目になり、最後列で冷や汗をかいた思い出が残っています。

船川勤務中、一時増設の構想が持ち上がり、結果的には「石油備蓄会社」が利用する事となった埋立地の漁業交渉の際、竹本所長の下で参画することとなったのは印象的です。千葉さんには後日、今では解体された国立競技場のトレセンで良くお見掛けしましたが、昨年他界され、お別れ会では、寮でよく歌っていた「スキーの歌」を合唱してご冥福を祈りました。

 

休日、近くの山を散策するのも楽しみでしたが、初夏を迎える頃、決まってひどい「ウルシ負け」の被害に遭ったのには閉口しました。それでも、秋、茸採りの名人に先導され、見事なナメコが密生した「風倒木」を発見した時の感激は、忘れ得ない思い出です。

 

楽しみの最大のものは、何と言っても冬期間のスキーでした。県内でも有数の豪雪地帯だけに冬の到来も早く、930日に初雪を見たのを鮮明に覚えています。

積雪量も半端でなく、供給所に入るとき、通常は道路から何段かの階段を登るところを逆に滑り降りる程でしたので、好天時の昼休み、滑降に適当な斜面を見つけるのに苦労はありませんでした。整備されたゲレンデとは違って、立ち木の間をすり抜けることが必要で、恰好よりも転倒防止が最優先でした。

ある日、手袋を嵌めず素手で滑降中にスキーのエッジで手に大怪我をし、近くにあった医院で処置を受ける失敗を冒しました。

失敗と言えば、坑内見学をした時、興味半分に竪坑内部をカンテラで照らしながら覗いていたところに、上部から急にケージが降下し、慌てて首をひっ込めたので、辛うじて事無きを得ましたが、自己保全の大切さを教えてくれた貴重な体験の「ヒヤリハット」でした。

 

5月の連休を利用して八甲田山を目指すスキー登山も、当然ながら慎重に進める必要があり、5回ともベテランリーダーのもと、弘前歩兵連隊の雪中行軍で有名な田代平にあった「ダム監視小屋」に前夜から一泊し、早朝天候状況を確認してから出発するのが習わしでした。

酸ヶ湯温泉に向けシールを着けての登山はかなりキツイものでしたが、到着後の「仙人風呂」とビールへの期待の方が上回っていました。当時酸ヶ湯には「鹿内仙人」と呼ばれた老人が健在でしたし、三浦選手親子も合宿に訪れていたようです。

帰りは雄大な前岳の斜面を、木々をかわしながら、一気に滑り降りる壮快感を味わうのが楽しみでしたが、天候の急変には勝てず、出発後やむなく引き返したこともありました。

上北には国体選手級の指導員がおられ、技能検定を受験したところ、幸いにも3級のバッジを頂けたのは感激でした。後日水島転勤時、第1回倉敷市市民スキー大会に、上北出身者4人で団体競技に参加し、何とか転倒せずにゴールできたため、優勝旗を受け取ったのは嬉しい思い出です。

船川勤務となった昭和45年の夏、懐かしさのあまり家族4人で上北を訪れました。数名の方が閉山のための多忙な整理作業中でしたが暖かく歓迎して下さり、感激でした。ただ、長年過ごした「清交寮」の建物は傾き、面影を残すのみとなっていたのを目にした時は、鉱山の宿命とは言え寂しい限りでした。

上北在勤中は、東北本線の列車を見るのも1年に一度か二度程度でしたが、「上北の沈澱銅」に象徴され、「神風鉱山」と呼ばれた上北で多感な独身時代を過ごさせて頂いたことを誇りにおもいつつ、当時を懐かしむ今日この頃です。

平成27年8月