
2000年5月19日 デイリー新聞掲載の上北鉱山の歴史紹介
国内最大の銅産出量を誇り「神風鉱山」の名前をほしいままにした天間林村の上北鉱山。戦争を背景に隆盛を極め、資源の海外依存と鉱床の枯渇によって衰退、閉山へ追い込まれた。戦中戦後を一気に駆け抜けた三十三年朝鮮人の強制労働や流れ出る鉱毒問題なども表面化した。しかし山に囲まれた鉱山村の暮らしぶりを覗けばそこで生活した人々たちの逞しい息ずかいが聞こえてくる。上北鉱山の歩んだ道のりは、日本の当時の姿そのまま映し出している
戦争背景に繁栄
天間林村と青森市との境にある山中古くから鉱石が眠っているとささやかれ、大正時代から二、三の業者が調査を始めた。1940(昭和15)年には日本鉱業株式会社が鉱山の権利を得て、硫化鉱山として本格創業に入る、窒素肥料の原料になる硫化鉄鉱。食料の増産が至上命題だったこの時代、掘っても掘っても需要に追いつかない、翌41年のは高品位銅鉱も発見され、武器製造に使われる重要な金属としてもてはやされた。
太平洋戦争突入の国情を受け、硫化鉄鉱と銅鉱の宝庫、上北鉱山は、本格創業からわずか3年足らずで黄金時代を迎える。終戦直前の44年には、一ヶ月の銅生産量が1400トンを越え、名実ともに日本一の鉱山に成長

命懸けの仕事
敗戦、新たな時代を迎えても神風鉱山の勢いは衰えない。焼け野原の日本が息を吹き返すには、硫化鉄鉱と銅鉱は引き続き貴重な資源であり、鉱区はさらに拡大していく。
「戦前戦後をまたぐ目覚しい繁栄ぶり。次々と住居が立ち並び、この姿が永遠に続くものと疑わなかった」削岩労働者として坑道に潜った関下繁蔵(82) 旭川市 はこう話す。命懸けの仕事であり、作業員は夢見が悪いの一言で休む事もあった。ドリルを手にした削岩労働者、地下水用の側溝を掘る衛生係、天盤を設置する構内員が一団となりキャップランプの明かりだけを頼りに深く暗い坑道の奥へ。
賃金は出来高払い。トロッコを運搬した回数や、さく岩した量で支払われた。
50年代に入り、一ヶ月間2万トンの鉱石を処理する大規模な選鉱場が中心部に誕生。斜面を利用した選鉱場から「鉄索」21キロと呼ばれる1種のケーブルカーで、青森市の野内駅などへ運んだ。

鉱山村の息遣い
創業開始時の従業員はわずか50人足らず。それも終戦前後には30倍の約1500人に膨れ上がり、家族を合わせると5000人規模に。鉱山にかかわる人たちだけが生活する独立した村。外部との往来が極端にすくないこの村の家族は、団結心を持って頼もしく生きた。
全盛期にはハーモニカ長屋を中心に住宅7百戸、独身寮と学生寮6棟、会社で経営するスーパー3店、無料の共同浴場9カ所、入院施設を備えた総合病院が村を形成した。
映画館では、「鞍馬天狗」や「笛吹き童子」など大衆娯楽映画が上映され、人気を呼んだ。
「戦後の食料難時代も、鉱山村では限られたものだけど、割合自由に手に入った」と証言するのは、少女期ををここで暮らした小暮京子66年代前半にはインスタントコーヒーを初め、ステレオやテレビなどの家電製品が普及していた。子供達は裏山にたわわに実る山ブドウをほお張りながら駆け回り、大人はワラビやゼンマイ、キノコなどの山菜採り、天然食材にも恵まれていた。鉱山村の中には会社の役職クラスが居住する「役宅」と、一般従業員の家族が住む「ハ^モニカ長屋」が共存。四方を山に囲まれたこの村では、教わらなくても団結の意識が養われ、確執はほとんど生まれなかった
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頂点から閉山へ
敗戦後、二百人近い朝鮮人労働者が帰国。会社はこの代わりにアジアからの日本人引揚者を多く雇い入れた。管理職も日本鉱業海外支社からの引き上げ者で占められた、一気に頂点に登りつめたさしもの優良鉱山も、60年代に入って陰りが見え始める。時代の波に押され、多くの従業員や家族が次々と山を下りていく、その端境期に上北鉱山小学校で教鞭を執った天間努(62) 天間林村天間舘 は「合理化が始まると、毎日のようにお別れ会、行き先は北海道や関東、関西、海外まで様々。さみしかった」と振り返る。
三十年余りの操業を閉じた後も、鉱山の宿命ともいえる鉱毒問題は残った。戦中にも鉱毒が坪川に流れ込み、下流域の田畑で被害が出た。藤坂農事試験場の調査官が現場に派遣されたが、「お国の為の鉱山」との大儀でうやむやになった部分もあると言う。60年代以降、会社は金属鉱業等公害対策特別処置法に基づく保安対策として、坑道の閉鎖や石灰中和の作業を継続、中和作業は今も続けられている。
