本田光明先生


 
 昭和10年生まれの82才
 
ご自宅玄関前にて 
 
  昭和38年3月に鉱山中の生徒数減少により教員減の話が出た時
  中野先生と相談し、独身の自分達2人が転出の手を上げるしかないと決めた。

以前住んでいた六戸の家に鉱山時代に自慢のカメラで写した写真があるので整理してみて出てきたら、小生に送ってくれることにしていただいた。

あちこちの教え子に恵まれた:
建築業の教え子に現在の家を新築してもらったり、
医者の教え子
に脳梗塞の検査や治療の便宜をはかってもらったり、
教育長になった教え子に天間館中学校の整
備をしてもらうなどの世話になった。

 
 
カナダのバンクーバーやトロントに住んでいる
家内の曾祖父の妹の三世、四世の、
20数家族の人たちに会いに行き、
一ヶ月ほどかけて訪問旅行してきた。そのための準備で忙しかった。

 
知人を通して各方面に掛け合い、大島啓子さんを三沢高校に転入させることができた。

野辺地出身なのでスキーは滑れたが、鉱山に赴任したら生徒が
あまりに上手なので驚きスキーの練習に励んだものだった。

 
   独身寮(紫雲寮、清交寮)での思い出が多い。

  パソコン机の前の本棚に英語辞書や英文メール、
歴史関係の本がぎっしりと並んでいた。

  洒落た洋風の自宅玄関前で写真を撮る時、
やはりご本人もカメラを持ってきて写真を撮った。


本田先生から 追伸メール

上記記載の中 訂正箇所があったので、修正致しました  安倍 記

HPを見て感心しました。アリガトウ!
それにしても、こんなことから、53年ぶりにコンタクトが取れたのも、9月11日に来訪してくれた、小田島さん一同五人組のお陰と思っています。
上北鉱山中は、私の教員生活の中でも一番思い出に残る学校でした。中野Tと行き帰り一緒に、坂道を昇ったり、降ったりして、通勤したことや
夏季は野球の、冬季はスキー部の、顧問をしたことなどが、つぎつぎと思い出されてきました。
貴殿へのお礼をかねて、この機会に同期生の皆さんにも、挨拶を兼ねて、私のことを報告をしたいと思っています。
(HPのちょっとした訂正もかねて)
同期生の皆さんへ      (名前の敬称は省略ね)
私が上北鉱山中に勤務したのは、その前年に、弘前大地学研究室に短期間留学する機会があり、鉱山のことを知りたいと思った事です。
早速、東京へ転校して行った、橋口さんの父さんに、鉱山の鉱脈見学を願いました。
地下深くの坑道に降りた時は、皆の父親たちがここで働いて、頑張っていることを実感できました。
鉱山の四季の変化は、素晴らしく今でも目に浮かびます。
積雪の多さよりも、早くスキーがしたくて、降雪を待ち焦がれていたことも、思い出のひとつです。
お蔭で53歳までスキーをしました。岩手の安比高原には、年に数回は出かけていました。
ともかく、皆のスキーの上手いのにはビックリさせられました。
朝登校するのに、工藤行雄(現青森県スキー連盟会長)が、奥ノ沢の山道を舞降りて来るの姿が目に浮かびます。
県スキー大会の碇ヶ関で、川村、鳴海らと活躍したことも忘れられない思い出です。
野球部では、七戸町の大会に参加するのに、千曳までのトロッコ道を歩き、途中の乙供中と、七戸警察署に宿泊して試合に出ました。
試合に出る朝に、腹が痛いと訴える生徒(名前を思い出せません)がいたので、
警察の署員に、病院に行ってもらって試合に出、帰って来たら盲腸と診断されていました。
腹痛のまま鉱山につれて帰ることができないので、親に連絡の上、七戸の私の教えていた生徒の親に、手術の付き添えを頼んで鉱山に戻りました。
鉱山中には5〜6年は勤務する予定で行ったのですが、生徒数が減って教員も2名減員になることが決まり、やむなく独身の中野Tと相談して転勤することしました。
光熱費も住宅料も無料の鉱山では妻帯者の教員には大助かりであったのです。
私は三沢第一中に希望し転出しました。残念無念でした。当時の三沢一中は一学年8学級で、忙しく頭を切り替えて取組みました。
スポーツが盛んで、野球部にあの全国を沸かせた太田浩司投手がいました。
太田選手の両親は樺太からの引き揚げ者で、母親はロシア人です、当時学校の近くの食堂の手伝いをしていて、私もうどんを食べに度々行っていました。
太田選手の中学校での活躍は、私が写真を撮っていたのですが、甲子園での活躍があって、雑誌社から、彼の写真が欲しいと連絡があり、フイルムを全部貸してやりました。
そのフイルムは、何度催促しても返ってきませんでした。太田選手は学力も高く、進学校の八戸高校に行く予定でしたが、三沢高校から是非入学させてくれとの要請があり、
それでは他の野球部員全員を合格させてくれるのならばとの条件で三沢高校に進学した経緯がありました。
この時のこともあり、大島啓子さんのことを、三沢高校に話したら、すんない入学を許可してくれました。
三沢市には、アジア最大の空軍基地があり、米人が一万人ぐらいて、基地内には夜間大学まであります。
私も基地内の学校や、スキー場によく行きました。ちょっと英語の勉強もしておこうと思ったからです。
英語のお陰で、1904年にカナダに移民した、家内の曾祖父の妹の三世、四世の、20数家族の人たちに会うことができました。
日本語が全然ダメで、白人と結婚している人も過半なので、皆に挨拶するのに、気の利いた英語でするのに苦労させられました。
カナダの親族の訪問は、現地の新聞にもとりあげられ、私もトロントの新聞に、記事を書くはめになりました。それがまた反響を呼び
オタワの日本大使館からの問合わせや、今度は、バンクーバーの日系紙が、新年の特集号で家族のインタービュー記事を載せてくれました。
カナダの日系人は戦時中、強制収容所に送られ、大変な難儀をしましたが、幸い親族の誰もが不幸なことになりませんでした。
曾祖父の妹が、薩摩藩出身の牧師と結婚していたからで、6人の子どもを産みました。
その長女だけが1932年に東京に来て、杉田元宣と結婚しました。杉田は東京帝国大学物理学科出身で少し有名です。(検索すると分かります)
戦後28年たって、彼女は仕姉妹兄弟と、再会を果たすことができました。皆の親も、戦中戦後に大変な苦労をしたことを忘れないで下さい。
小田島一行が訪ねてくれて、還暦同期会に遠方から出席してくれている数名に、突然53年ぶりにはがきで連絡しましたら
恵美さん、啓子さん、くに子さん、恵子さん、ふじ子さんから実に丁寧な手紙を頂きました。
丁寧で上手な筆跡を見て、私の家内を感心していました。ありがとう!またね。筆跡を見て職業柄、あなた方は素晴らしい母親でもあることが分かりました。
みなさん!しばらくご機嫌よう!またね。こちらに来る機会があったらコーヒーを飲みに寄って下さいね。
                                                    本田 光明