上北鉱山小学校・中学校校歌及び校章制定に至る沿革調べ

 

2017.9.7青森市小田嶋徳次

 

 表記に関する記載された資料は、平成11年3月11日に制定当時に在職していた
武内俊夫先生から岩崎繁様に宛てた手紙の中に、その約50年位前という事と、
その経緯について書かれておりますが、はっきりしている校歌の作詞作曲者についても
各方面からお寄せ頂いた資料を基に、その概要をまとめてみました。

何せ当時の直接関係者ではありませんが、消息のつかめた、そのご子息ご親族に
コンタクトが採れて、お話を伺う事が出来た事が唯一の成果でした。

そんな中で、この9月6日中学校校章の創案に関わった生徒から、当時の事を直接確
認できた事と、11日には武内敏夫先生から直接お話しを伺う事ができる予定です。
当時に思いをはせる一助にして頂ければありがたいです。
最初が1月、今回が9月、武内敏夫先生にお逢いした後や、他の方から沿革に新事実が確認
されましたら、書き加えることにいたします

大半が教育委員会からによりますが、有色部分が当時の関係者からの内容です。

 

上北鉱山小学校・中学校校歌及び校章制定当時に至る沿革

 


上北鉱山中学校 校歌・校章

(七戸町教育委員会と米田校長ご子息・当時2年生五十嵐敬一氏の情報)

昭和22年3月15日 上北鉱山国民学校長米田勇四郎、同教頭佐藤丑蔵。
           上北鉱山首脳
部を委員に新学制実施準備会を設置

昭和22年3月31日 米田勇四郎中学校長着任(小学校長兼任)

昭和22年4〜5月  学校に校章が無かったことから当時の担当教員
           芳賀量一先生と2
年生在学の五十嵐敬一氏と田村正男氏の3名
           による合作で創案さ
れたことが、現在岩手県北上市在住の
           五十嵐敬一氏より伺うこと
ができ確認できました。
           桜に鉱山の記号と本をアシラッタ中のデ
ザインでまとまったもの

昭和22年6月1日  校章(帽章)設定

昭和23年3月31日 米田勇四郎中学校長転任

昭和23年3月31日 芳賀量一中学校長着任(昭和22年時は中学校教職員でした)

昭和23年10月13日  2泊3日大沼公園まで修学旅行

昭和24年2月25日 校歌決定(作曲は先に陸奥明氏への依頼と思われる)

昭和24年10月2日 弘前大学教授嶋邦男氏校歌作詞の為来校

昭和25年11月3日 校歌発表会

 
 


上北鉱山小学校 校歌・校章

(七戸町教育委員会と米田校長ご子息、南啓喜ご子息の情報)

明治32年 米田勇四郎氏生年(参考)

明治42年 南啓喜氏生年(参考)

昭和15年3月31日 米田勇四郎高森鉱山国民学校長着任(米田校長ご子息のお話)

昭和17年3月31日 米田勇四郎上北鉱山国民学校長着任

昭和20年7月31日 武内敏夫氏上北鉱山国民学校へ赴任(同氏より辞令見せて頂く)

昭和22年3月31日 米田勇四郎小学校長着任(中学校長兼任)

昭和22年6月1日  小学校校章(帽章)決定する、武内敏夫先生創案されたもの

           武内敏夫先生は当時上北鉱山国民学校後の小学校の准訓導

           (助教諭との記録になっております)

昭和23年3月31日 米田勇四郎中学長兼任を解き小学校長専任となったと思われる

昭和23年頃     小学校校歌制定されたと推測される
           記録が無いが武内先生の手
紙の中に校歌の前に校章を、
           の一説がある事と小野正文先生の執筆本から

昭和29年3月31日 米田勇四郎中学長定年退職(以下米田校長ご子息よりお話)

昭和29年3月31日 米田勇四郎・上北鉱山野内男子学生寮長を委託される(参考)

昭和34年3月31日 米田勇四郎・上北鉱山野内男子学生寮長の勤め終える(参考)

 

 上北鉱山小学校・中学校校歌の作詞作曲者について


   小学校校歌

作詞者小野正文先生大正2年1月生まれ・東京帝大卒・青森県高校教諭・

弘前南初代高校長・弘前中央高校校長・青森県立図書館長・青森中央短大教授・

同大学長・青森中央学院大学客員教授を勤め、県内小中高校歌、大学寮歌、

社歌を数多く150位の作詞をする。同郷の5歳上の太宰治とは親交あり、

太宰文学研究家でもある.

作詞依頼のいきさつについては不明

作曲者南啓喜先生七戸町出身、武蔵野音楽大学弦学科を出てヴァイオリン奏者として

活動。後に明治大学付属中野高校教諭として教鞭をとる。

当時の米田勇四郎小学校長が同郷のよしみで作曲を依頼する。

ご子息南光二郎さんのお話で小学1年の頃ですが、校歌発表演奏の為

鉱山を訪れた際一緒に来た記憶があるとの事です。



   中学校校歌

作詞者嶋邦彦先生当時弘前大学教授

作詞依頼のいきさつについては不明(苗字の嶋は七戸教育委員会の記録より)

弘前大学の副教授に就任し1954年に教授になった甲骨文字の研究家です。

1977年没となっております。

作曲者陸奥明三本木村(現十和田市)出身、明治28年生まれ、

東邦音楽学校卒業後、オペラ歌手を経て歌謡曲作曲家デビューする。

歌手菅原都々子は同氏の長女です

作曲依頼の経緯については不明ですが、十和田出身の音楽家という事が

深く関係していると考えられます。S36年から38年の間に

お二人で鉱山を訪れておりますが、時期ははっきりしません


今回の調べで協力いただいた方々は連絡のついた順に次の通りです

 

【小竹恵美子さん】

中学校校歌作詞者小野正文先生の著書作詞集とあとがきにある上北鉱山に関する記載情報

【安倍秀勝さん】

武内俊夫先生から岩崎繁様宛てた手紙の内容について

【三上伸和さん】

武蔵野音楽大学同窓会青森支部長・
小学校校歌作曲者南啓喜(ひろよし)先生の学んだ大学時代の手がかりについて

【西冨和幸さん】

明治大学付属中野高校教諭・南啓喜先生をネット検索したところ
昭和
363738年当時同高校で吹奏楽の指揮者情報あり確認と新たな情報の提供をお願いする。南啓喜先生の教諭時代にお世話になった

話がありました。

【南光二郎さん】

南啓喜先生のご子息・西冨和幸さんの情報で南啓喜先生と同じ武蔵野音楽大学に進み
交響楽団のヴァイオリン奏者を務め、その後中野高校に音楽教諭として
西冨和幸さんと
一緒に仕事をされた。
小学校校歌発表時学校に入ったばかりの時父親に連れられて鉱山に来た記憶ある。

 【米田勝也さん】

小学校米田勇四郎校長の七戸在住のご親戚・同じ苗字の家電話番号をリストアップし
情報を得ようと1番最初に電話したところ親戚とわ
かり、消息について伺うことができた。

【米田實さん】

八戸市在住米田勇四郎校長のご子息・米田勝也さんより連絡先を伺って
孫の實樹さんと連絡とれ、当時の事を伺うことができた。

【七戸町教育委員会学務課】

当時の小学校中学校に関する校長、校歌、校に関する保存されている
資料について調べていただいた。章

【菅原都々子さん】

父陸奥明さんからの中学校校歌作曲に関わる依頼者やエピソードを
照会したが回答には無かった。

【浅沼茂さん】

校歌校章に関する手紙を書かれた武内敏夫先生が。小学校1年の担任であり、
且つ十和田で壮健である情報から直接お話し出来る、きっかけ
を作って頂いた。
中学校校歌のルーツについて、昭和41年中学卒同級
生 高橋真一さんの叔父に当る
五十嵐敬一さん創案に関わった情報と
その内容について収集して頂いた。

【高橋真一さん】

浅沼茂さんを通じ叔父に当る五十嵐敬一さんに中学校校章創案当時の事を
伺ってもらうことができた。

【武内敏夫さん】

小学1年に浅沼茂さんの担任であることと壮健である事がわかり、それがきっかけで
連絡をとってもらい当時の事や校歌校章に関する事を直接話を伺うことが
できることとなった。